2010年11月9日火曜日

ブログの引越し

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今後ともよろしくお願いいたします。

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2010年11月3日水曜日

現実を見つめることの大切さ (40)

藤原氏によると、「美しい情緒」、あるいは「美しい情緒」が一つの形を成している「武士道精神」は、六つの理由で世界を救う事が出来る。一つずつ見てみよう。

① 美しい情緒は、普遍的な価値がある。

ある意味では、チョコレートにだって普遍的な価値はあるが、「普遍的な価値=世の中を救う力」ではないのが現実だ。つまり、美しい情緒を育てるだけではなく、人間の心に深く根を張っている「醜い情緒」の対応法をしっかりと考えなければならない。でなければ、患者の心臓病を無視して、美容整形しか勧めないような「やぶ医者」と同じだ。このように、藤原氏の思想は現実性に欠けていると私は思う。

② 美しい情緒は、文化と学問を高める

それはそうかもしれない。

だが、「美しい情緒」を抱いている人でさえ、自分の主張を裏付けるためなら、歪んだカリカチュアを平気で利用したり、智子イズムに頼ったりすることがあることも見てきている。つまり、「美しい情緒」を身につけていても、時と場合によって、人は文化や学問に対してかなり否定的な態度を取ることがある。

③ 美しい情緒は、国際人を育てる

18世紀のヨーロッパには、立派な国際精神が栄えたと評価する歴史家がいる。カント、ギボン、ゲーテ、フランクリン、ルソーなどの文化人は、それぞれの国を代表するような人物だったにもかかわらず、何より楽しんでいたのは「国際交流」だったそうだ。『相手の国の言葉を喋り、その国の歴史や芸術について詳しい知識を持ち、その国は自国と経済的に結ばれていることを意識した上での交流だった』と、なかなか立派な話である。

それに比べて、自然の感受性・もののあわれ・祖国愛にいくら富んでいても、相手を見下げ、相手の思想や文学をカリカチュア的に扱うような人物ならば、「真の国際人」と呼んでいいのだろうか? 一つの基準として考え、まず言えることは、そんな人は18世紀の紳士たちの仲間には入れなかっただろう。

④ 美しい情緒は、人間のスケールを大きくする。

これにたいして、②と③と同じ疑問を抱かずにいられない。特に、藤原氏は、美しい情緒が人の「総合判断力」を高める効果があると主張しているが、本当にそうだったら、あえて智子イズムとカリカチュアに頼る必要はないだろう。

⑤ 美しい情緒は、「人間中心主義」を抑制する。

「自然に対する感受性」は「環境を大事にする精神」に繋がっていることは確かだろう。しかし、自然美などにまったく鈍感な人でも、綺麗な水を飲み、綺麗な空気を吸いたいと思うはずだ。だったら、自然の感受性を高めることは、環境問題への意識を高める唯一の方法でもなければ、最も容易い方法でもないと私は思う。

⑥ 美しい情緒は、戦争をなくす手段である。

これは、「美しい情緒」の力を大げさに言っているだけではなく、戦争の本当の原因を、藤原氏がどれだけ勘違いしているかを示す主張だ。次回は詳しく考えてみよう。

2010年10月6日水曜日

「美しい情緒」は世の中を救えるのか? (39)

自然に対する感受性。
もののあわれ。
懐かしさ。
家族愛。
郷土愛。
祖国愛……。

藤原氏が挙げる「美しい情緒」は、確かにどれも賞賛すべき感情だ。こうした情緒は、人間一人ひとりの人生を豊かにする効果があることも否定できない。愛する人に囲まれながら、大自然の美を楽しんで、一日一日を大切にする人こそ、真の幸せを手に入れたと言えるだろう。

だが、こうした情緒は「世の中を救える」という考え方は、途轍もなく大げさだと私は思う。

その理由を三つ挙げよう。



まず、どの「美しい情緒」も、太古の昔から世界の各国で存在するものであるにもかかわらず、「自然に対する感受性」によって、悲惨な戦争が避けられたケースは一つもない。「もののあわれ」に対する敏感さによって、飢饉や内戦で苦しむ発展途上国の治安が確立されたり、飲料水が消毒されたりした話も聞いたことがない。つまり、「美しい情緒」は、個人個人の人生を精神的なレベルで豊かにする力はあっても、命そのものを支えたり、生活を保護したりするような力はない。

もちろん、慈善的な行動に直接繋がるような「美しい情緒」もある。このような感情ならば、「世の中を救える」とまでいかなくても「世の中を改善できる」ことは、私も認める。しかし、人間社会に役立つような「美しい情緒」は、どちらかと言えば、藤原氏が説くような「美的情緒」ではなく、キリスト教や仏教で説かれている「慈愛」や「慈悲」である気がする。



では、家族愛・郷土愛・祖国愛などはどうだろう? 自然美の観賞などではなく、しっかりと人間関係に基づくこれらの情緒なら、慈愛や慈悲のように、ポジティブな影響を社会に与えることは出来るのだろうか?

これは多少認められるとしても、「美しい情緒」が世の中を救えない二つ目の理由をここで述べなければならない。つまり、いくら「美しい」情緒であるとはいえ、それは悪用される可能性もある。

藤原氏は、悪用され得る論理を批判しながらも、感情が悪用される可能性について一切触れないのは、私にとっては不思議でならない。どんなに悪質な議論でも、理屈をこねれば正当化することは確かに出来るかもしれない。だが、感情や情緒についても同じことが言える。テレビのコマーシャルから「振り込め詐欺」まで、一般の政治家から過激派の扇動者まで……、下心をもって大衆の情緒に直接訴える人・団体・会社は、社会の至るところで絶えず働いている。しかも、「美しい情緒」こそが、醜い事実を誤魔化すのに最適であると、それぞれのプロパガンダを製作する人・団体・会社は充分理解している。



最後に、「美しい情緒」にまつわる最も厄介な問題に触れよう。

つまり、いくら純白な情緒を抱きながらも、非道そのものの悪巧みに、人は参加することが出来るのだ。その極端な例として、戦争というものを挙げられるだろう。祖国愛、友情、自己犠牲の精神、正義感、忠誠心、惻隠、勇気……。戦争こそが「美しい情緒」を生み出すものであると言っても過言ではない。どの時代においてもそうであり、どの交戦国の勇士はこうした「美しい情緒」に日々支えられてきた。

しかし、言うまでもなく、すべての戦争は正しいわけではない。つまり、「美しい情緒」による「個人の美徳」と、単なる野望に基づく「国家の悪徳」とは、見事に共存することが出来るのだ。

いくら「美しい」情緒でも、その考え方や応用法を一歩でも間違えば、「世の中を救う」どころか、誤った論理以上の悪影響を世の中に与えてしまうことになるだろう。

虫の声 (38)

では、人間の感情は万国共通であり、日の下には新しいものはないのに、なぜ藤原氏は「もののあわれ」の英訳にそこまでこだわったり、欧米人は虫の声を楽しめないほど大自然の美しさに鈍感であると主張するのか? 

それは、「国家の品格」を通して、日本の洗練された美学や珍しい情緒こそが「世の中を救える」と藤原氏は主張したいからだ。となると、「日本にしかない情緒」、「日本人にしかない敏感さ」がなければならないわけだ。

日本の芸術は素晴らしい。日本の文学は繊細で巧みな表現に富んでいる。それは誰もが認めることだ。だが、藤原氏の主張を受け入れるために、海外の芸術、海外の文学、海外の人々の根本的な人間性についてでさえ、あまりにも歪んだカリカチュアを飲み込まなければならない。

例えば、藤原氏の考え方では、日本の詩人は大衆の心をありのままに上手く表現しているが、欧米の詩人は、一般の国民と掛け離れた存在であり、珍しい感性を持っていることになる。そんなことはありえない。シェイクスピア、 ディキンソン、 フロスト、 ホイットマン、 テニスン、 エリオット……。皆大衆に理解され、尊敬され、愛されているからこそ、普遍的な名声を得たのだ。

藤原氏の知人が、大自然に刺激され、その刺激がインスピレーションとなって、数学の難問を解けたというエピソードも、「国家の品格」で語られている。しかし、「自分の信仰によってインスピレーションを受けて科学の新たな発明が出来た」というニュートンの主張を、藤原氏は「根拠のない先入観」と馬鹿にしている。「藤原氏の友人は『美しい情緒』によって理解力が高められたが、ニュートンはただの迷信に騙されていた」という差別的な考え方は、あまりにも矛盾していて、受け入れられることにも、真面目に考慮されることにも値しないだろう。

2010年9月5日日曜日

恋愛詩 (37)

せっかくだから、もう一つの例を見てみよう。次の場合は、共通している感情も同じであれば、それぞれの反応まで大して変わらないかもしれない。

まず、和漢朗詠集からだ:

頼めつつ 来ぬ夜あまたに なりぬれば 待たじと思うぞ 待つにまされる

(相手が訪れてくることを毎晩期待しても、結局来ない夜がずっと続いてしまっている。だが、「これ以上待つまい」と決心するのもまた辛いことである)

満たされない愛。その寂しさはいかに耐えがたいことか、これも普遍的なテーマだ。

アメリカの詩人ウォルト・ホイットマンも、自分の心境をこう表現した:

I am he that aches with amorous love;
Does the earth gravitate? does not all matter, aching, attract all matter?
So the body of me to all I meet or know.

(私は恋情に思い悩む者だ。
地球に発せられる引力の如く、
どの物質も周囲の物に強く憧れ、引き付けようとするのではないか?
私の体も、知り合う全ての人を引き付けようとしている)

ギリシアの女性詩人サッポーも、強く渇望的な愛の辛さを上手に描いている:

情欲が又もわたしの身を揺さぶりまわす。
手足の力がとろかしてしまい、
からみつくこのほろ苦さに
わたしには何の抵抗もできない。


愛の力は恐ろしいものらしく、中国の隠逸詩人であった陶淵明でさえ、次のような切ない句を詠んでいる:

願在晝而爲影 常依形而西東
悲高樹之多陰 慨有時而不同

願在夜而爲燭 照玉容於両楹
悲扶桑之舒光 奄減景而藏明

(できることなら、昼には、影となって、あなたの身に寄りそっていたい。
しかし、悲しいことに、高い樹木の影も多く、ときどき一緒にいられなくなる。

できることなら、夜には、灯火となって、柱の間からあなたの美しい姿を照らし
 ていたい。しかし、悲しいことに、朝日が差してくると、あなたは私を消してし
 まうだろう)

この歌は、淵明の妻の没後の作ともされているので、一層切なく感じられる。

2010年8月14日土曜日

世のなかは 夢かうつつか (36)

形の多様性に富む世界の文学が、どのように共通した情緒に取り組んできたかを、具体的な例で見てみよう。

先ずは、古今和歌集から一遍の和歌を挙げよう:

世のなかは 夢かうつつか うつつとも 夢とも知らず ありてなければ

(世の中は、夢なのか、現実〔うつつ〕なのか、これは何とも言えない。全てがあってないような存在だからだ)

「よみびとしらず」による歌とはいえ、多くの人が考えてきたことだろう。シェイクスピアも次のような言葉を残している:

We are such stuff,
as dreams are made on; and our little life
is rounded with a sleep.

(我々は夢と同じ物で作られ、この儚い命は眠りに終わる)

古代ギリシア人、ピンダロスの詩では、同じ情が次のように表現されている:

人の命は一日限りの儚いものだ。人間とは、いったい何物だろう?
その存在をどう定義するか?
人は、夢の中の影だ。


最後に、李白の言葉を挙げよう:

處世若大夢  胡為勞其生

(この世にあるのは、大きな夢を見ているようで、儚く短い存在だ。ならば、必要以上に苦労しない方がいいだろう)

和歌を詠んだ詩人は、老荘思想もしくは仏教の影響を受けていたという説はあるが、シェイクスピアはどうかというと、演劇の独特な儚さに刺激されているようだ。脚本家ならではの話だ。

ピンダロスの詩はやはり古代ギリシアの思想に影響されている。格闘技の試合に優勝した若者を一旦褒め称えてから、彼は上記の言葉で締め括っている。どんな名声も儚いものであり、そもそも人間そのものも儚い存在であると。

そして、李白の詩の続きを読むと、酒豪だった彼は、「どうせなら今のうち楽しまなきゃ。酒だ!」と酔っ払って、しばらく道端で倒れてしまうのだ。しかし、目が覚めると、鶯の声を聞き、「このまま大自然に溶け込んでいきたいな」という無我の境地に至らせられる。

それぞれの詩は人生の儚さをテーマにし、その儚さに対する作者自身の「反応」ではあるが、きっかけとなった根本的な「感情」は全く同じだろう。

2010年8月5日木曜日

もののあわれ (35)

それぞれの文化が生み出した文学には、形式上の違いはあっても中身にはさほどの違いはない。どこの国の詩歌にも、人生の儚さが歌われ、移り変わる季節の美しさや故郷への懐かしさも歌われる。月・山・動物・虫……、どれも普遍的なモチーフである。

藤原氏は「もののあわれ」こそが、日本人ならではの美しい情緒であり、洗練されたこの美学こそ世の中が必要としているものだと主張する。美しい情緒などが世を救えるかどうかを考える前、とりあえず、「もののあわれ」というのは、そんなに珍しい情緒かどうかについて考えてみよう。

「『もののあわれ』に相当する英単語はなく、平安時代の和歌を英訳しようとする人は大変苦労する」。こうした理屈で、藤原氏は欧米における「もののあわれ」の理解が乏しいと主張している。しかし、そんな主張は、英語と言語学そのものに対する理解の足りなさを表しているだけではないだろうか?

実のところ、「ありがとうございます」や「どういたしまして」も、本来の意味をよく考えれば、ぴたりと当てはまる英単語は無いのだ。だが、「Thank you」と「You're welcome」で充分間に合っている。藤原氏のように、直訳にこだわることは下手な翻訳法だ。

英語には、二十五万以上の単語があり、これに熟語・専門用語・方言などをあわせると、総単語数は七十五万まで上るとも言われる。世界中の言語の中で最も多い単語数であるとされることもある。それだけの薀蓄を持ちながらも、誰もが経験するはずの「情」を表現できなかったら確かに困る。だが、実際には何の問題も無い。

まず真っ先に思いつくのは、「ephemeral」という形容詞だ。ギリシア語の「エフェメロス」という語に由来し、「一日だけ存在する」という意味から転じて、「儚い」や「短命である」などの意味をもつようになった。もちろん、形容詞としてどんな名詞を修飾しても良いから、英語では、ephemeral life, ephemeral joys, ephemeral beauty などの言い方がたくさんある。一日しか生きられない短命な虫や花にも使われる。響きが綺麗で、なかなか立派な言葉だ。

意味が似ていても、「transient」や「evanescent」という形容詞には、「ephemeral」とは微妙に異なったニュアンスがある。そして、語尾を変えれば、名詞として使えるので、さらにたくさんの表現が出来る。

この他にも、「transitory」、「fleeting」、「impermanaent」、「 momentary」、「 unenduring」などの言葉もあり、「もの」「の」「あわれ」のように、複数の単語を組み合わせようとすれば、巧みな表現がいくらでも出来る。

どちらかといえば、「よろしくお願いします」のような決まり文句の方が英語に翻訳しにくいだろう。主語も目的語も省略されているからだ。だが、いくら「日本的」な美学要素とはいえ、「もののあわれ」は、英語に翻訳しにくい言葉であるとは私は思えない。

「いや、そうじゃなくて、『もののあわれ』という言葉ではなく、『もののあわれ』という雰囲気を描くこと、『もののあわれ』という描写そのものは英語に翻訳しにくい」と言われても、私は納得しない。元の詩がよく出来ていれば、そのまま翻訳すれば良い。「もののあわれ」は万国共通の情緒の一つであるから、わかる人はわかる。

次回、形の多様性に富む世界の文学が、どのようにして共通した情緒に取り組んできたかを、具体的な例で見てみよう。