2010年5月29日土曜日

イギリスの帝国主義 1 (23)

「1900年の時点のイギリスには、天才も秀才もたくさんいたし、人格者も聖職者もたくさんいたはずです。しかし、論理というものがきちんと通っていれば、後に振り返っていかに非道に思えることでも、なぜか人間はそれを受け入れてしまうのです。…… 今から考えると、植民地主義や帝国主義というのは、たんなる傲慢な論理にすぎない。しかし、当時は、きちんとした論理が通っていたので、みながそれに靡いたのです。帝国主義が「本当にいけないこと」として認知されたのは、第二次世界大戦が終わってからに過ぎません。」

『国家の品格』 第一章より


十九・二十世紀における帝国主義や、その他の近代歴史について考える時、藤原氏はまた「論理馬鹿仮説」を用いているようだ。だが、いくら悪の代名詞となった「帝国主義」がテーマでも、バランスのある思考法で取り組まなければならない。複雑な歴史問題だからだ。先入観たっぷりの智子イズムで取り組んでしまえば、ろくな結論も出なく、昔の恨みや敵愾心が蘇るだけだろう。

帝国主義の本質に触れる前に、帝国主義の倫理問題が、第二次世界大戦終了まで本当に認められなかったかということについて考えよう。

先ずはっきりと言っておく。決してそうではなかった。大英帝国が膨張するにつれて、その膨張を非難する声も常にあった。しかも、その声は徐々に勢力を増していた。

例えば、首相候補だったイギリスの政治家、チャールズ・ディルクは1899年に、『大英帝国』という本を執筆した。その中にはこんな箇所もある:


「『自由』を揚げて正当化しても、アフリカ大陸の区画や『コンゴ自由国』の設立を促進することによって、我々は、先祖が犯した奴隷貿易の罪より大きな悪事に参加していると言えるだろう」


この『大英帝国』は、数多くの新聞評論家の賞賛を受け、現代の言葉で言えば、ベストセラーだった。しかも、実際のところ、ディルクは帝国主義「賛成派」の有力な一員だった。そんな彼がそこまで正直な反省を公に述べられたことは、当時のイギリスでどれだけ盛んな議論が為されていたかを表しているだろう。

帝国主義は大きな社会問題として取り上げられていたことをはっきりと示す書物は他にも多数ある。ジョン・ロバート・シーリーの『英国膨張史』はその一冊である。1883年7月に発刊された『英国膨張史』は、同年の10月に早くも重版が決定され、再発刊は1914年までには、18回も行われた。

ちなみに、歴史家・作家として高い評価を得ていたシーリーは、日本にも影響を与えている。稲垣満次郎は、イギリス滞在中に著した英作文「Japan and the Pacific and the Japanese View of the Eastern Question」を、恩師であったシーリーに提示するほどであった。

では、『英国膨張史』の一箇所だけ挙げよう:


「わが国民の間では、帝国に対する考え方は二通りある。片方の思想を持つ者は、大言壮語する癖があり、もう片方は、悲観的なことしか言わない。

前者は、巨大な帝国を築き上げるために費やされた壮大な努力とエネルギーを思うと、恍惚とした情を抱く。したがって、帝国を維持することは、国の名誉や品格を保つための義務であると、この人たちは主張する。

後者の主張は正反対である。つまり、帝国は侵略行為から生まれた上に、無益な植民地は本国イギリスの重荷になっていると、彼らは解釈する。それから、島国独特の国防的な利点は失われ、イギリスは世界各地の争いに巻き込まれてしまうことを恐れている。したがって、帝国の速やかな廃止を、この人たちは望んでいる」


「帝国は侵略行為から生まれた」、「無益」、「重荷」……。強い言葉ばかりだ。反対派は、遠慮せずにがんがん不平をこぼしていたようだ。

ところで、ディルクと同じように、シーリーも国の政策としての帝国主義を支持していた。次回は、経済学者、ジョン・アトキンソン・ホブソンの『帝国主義論』より、実際の反対者の言葉を挙げておこう。

2010年5月26日水曜日

歴史問題 (22)

歴史を芸術に例えるとしたら、彫刻が一番似ている分野だろう。

要するに、歴史の基本的な「事実」は、歴史家の手では粘土となり、その粘土を使い、歴史家は自分のイメージどおりの作品を作り上げる。粘土を練りながらゴミを取り除く彫刻家と同じように、歴史家も自分の「作品」に入れたくない史実を取り除くことが出来、作品の中には、自分の歴史観と解釈をいくらでも強調できる。

自分の先入観を認めた上で、ありのままの史実だけ伝えようと努力すれば、歴史家はある程度バランスのある作品を作り上げられる。すると、過去と同じ問題に取り組む現代人の参考にもなり、大きな価値のある「良い歴史」は生まれる。

しかし、芸術家が模写を試みても、なかなか自分の癖をなくせないのと同じように、歴史家も自分自身の思想や先入観を完全に消滅させることは出来ないだろう。通常なら、こうした歴史解釈の多様性は問題にならなく、逆に言えば、いろいろな考え方があった方が望ましい場合もある。

だが、やたら自説を押し通すだけの解釈ならば、それは、骨もなく、粘土がべとべとと重ね合わせられた彫刻に等しい。美しさもなければ、実用性もない。こうした「悪い歴史」は、過激派や原理主義者のプロパガンダ以外に、何の役に立たない。

歴史は面白い。歴史の勉強は楽しい。歴史を語り継ぐことは言い尽くせないほど大切である。だが、何と言っても、歴史の解釈に無くてはならないものはバランスである。無知や先入観によってそのバランスが崩れてしまえば、歴史は危険にもなり得る。

しばらくは、大きな歴史問題に焦点を当てることにしよう。どれも大切な話題であリ、大いに研究する価値がある。

2010年5月23日日曜日

アメリカの大学生の英語力 (21)

「私がアメリカで教えていた当時、アメリカの大学生たちはろくな英語を書けませんでした。宿題の添削をしていると、あまりにも英語がひどいので、数学そっちのけで英語のチェックをしていたくらいです。professorの「f」を2つダブらせるといった単純なスペルミスならまだいい方で、主語が三人称単数で現在形なのに「s」をつけなかったり、そもそも主語がなかったりと、とにかくめちゃくちゃでした」

「国家の品格」 第二章より


『ありえない。 まったくありえない……』。

藤原氏の言葉を読んだ時、私はそう思った。スペルミスだけに関しては、多少認められるが、それにしても、藤原氏の思っているほど重要な問題ではないだろう。

英語のスペルミスには三種類がある。

一つは、単純に綴りがわからない場合のミスである。長い言葉、普段使わない言葉、外来語(特にフランス語に由来する単語がわずらわしい)……、いわゆる「難しい言葉」を書く時に見られがちな失敗だ。

次は、同音語を無意識に入れ替えってしまう種類のミスだ。「There」を「Their」と書いてしまうのは代表的な例である。

最後のスペルミスは、「タイポ」と呼ばれ、タイプの打ち間違いである。だが、単なる打ち間違いの他にも、こんなことがある。普段は友人との文通の中で「Thanks, John」と簡単に書いてしまうが、親しくない相手に対して、「Thank you, Mr. Peterson」と書かなければならない。この場合、「Thanks you, Mr. Peterson」と間違えることがある。つまり、指で覚えた動きで、要らない「s」を「Thank」につけてしまったわけだ。

言うまでもなく、スペルミスのほとんどは、教養の無さや国語の無知を表すような大問題ではない。無意識に犯してしまう「不注意」だ。ちゃんとした文書やリポートだと、何度も読み返して、こうしたミスを直すのが基本で、誰もが心掛けることである。だが、それでも気付かない場合があるので、ある程度の間違いを皆で赦し合うしかない。

ということで、professorの「f」が二つ書いてあった話は想像できる。そして、藤原氏にはそこまでのこだわりがあるのなら、仕方がないと思う。 (もちろん、生徒を注意しながらも、もう少し寛容な心を持ってもらいたかったのは本音だが……)。

しかし、三人称単数の「s」を付けなかったり、主語を完全に省略したりするような話は、私にはどうしても信じられない。外国人の留学生だったら、まだそういうことはあるかもしれないが、藤原氏は母国語として英語を話すアメリカ人のことを言っている。となると、どんな癖のある喋り方をする人でも、書く時にはそんなミスをするはずは無い。

とはいえ、私は数学者ではないので、数学学会における独特の表現法、もしくは、文書の書き方の決まりでそうなってしまうことはあるのかなと疑問に思った。念のため、私はちょっとした調査を行うことにした。

藤原氏の指摘する三種類の国語ミス(綴りの誤り・三人称単数の「s」を付けないこと・主語の省略)を説明して、そのようなミスが担当する学生のリポートに見られるかどうかを、私はメールで20人程の現役数学教授に問い合わせてみた。その中には、藤原氏が助教授として務めたコロラド州立大学の教授も多く、その時代からずっと働き続け、藤原氏を覚えている方も数人いた。

代表的な回答をここで翻訳しておこう:

『英語を話す生徒たちには、そんな間違いをする人はいません。数学独特の言葉遣いや表記の仕方がそうさせることもないでしょう』


『いや、そんな間違いを見たことがないな』


『私は、コロラド州立大学で20年間も教えてきましたが、藤原氏が言っているような間違いをする生徒を一度も見たことがありません。作文がさほど上手ではない人ならもちろんいます。しかし、数学の薀蓄についても同じことが言えるでしょう。残念ながら、完全に準備できている生徒はいません! とはいえ、藤原氏が言っている話はちょっと信じられませんね』


『スペルの間違いは多いですが、動詞のSが抜けていることなんて、私は見たことがないです』


回答の中には、次のような意見もあり、正直に言うと、カリカチュアを平気で利用する藤原氏の主張については、これは私自身のやむをえない解釈でもある。


『そんな間違いが稀に見られたとしても、それが標準的であるかのように主張することは、無責任である。そんな著者を赦せません。高校生の作文でさえ、そんな間違いなんて滅多に見られないでしょう。筆者は意図的に事実を曲げているとしか思えません。

この人はなぜそうやってアメリカの大学生をけなしているのだろうか? 私が聞きたいのはそれだ。そこまで馬鹿げたことを言うほどであれば、何かしらの下心はあるに違いない』

2010年5月19日水曜日

真の「平等」 (20)

藤原氏が言うには、「平等」は論争を煽り立てる自己中心的な考え方であり、自分の利己心を正当化する口実に過ぎない。

しかし、私のクレジットカードが盗まれ、私に成りすまして誰かが買い物をしたとしても、私自身の存在がなくなるわけではない。同じように、利己心が「平等」と名乗り、「平等」という言葉が悪用されることがあっても、純粋な「平等」という概念には何の変わりはない。

アメリカの奴隷制度の歴史を振り返ると、真の「平等」概念は、いかに人間社会を改良してきたかはわかる。

例えば、こういう話がある。

1742年、ニューヨーク州の小さな農場で、マム・ベットという女性が奴隷として生まれた。ベットは成人するまでその農場で育ち、働き続けたが、主人(飼い主)が亡くなると、彼の娘の相続の一部として、ベットはマサチューセッツ州に引き取られた。38歳になるまで、ベットは元主人の娘とその夫(ジョン・アシュリー)に仕えた。その間、ベットは結婚したが、夫は独立戦争の戦いで殺され、また独り者となってしまった。

1780年のある日、女主人に叩かれたベットは逃げてしまった。これは相当な覚悟の要る行為だった。見つかれば、体罰は当たり前で、南部に売られてしまう可能性もある。だが、ベットはアシュリーに見つかっても、彼の言うとおりにしようとせず、一緒に農場に帰らなかった。

実は、その年、マサチューセッツ州の憲法が新しく批准され、独立宣言の「すべての人間は平等に創造され、作り主によって、本質的尚且つ侵すべからざる権利を与えられている」という言葉は、ほぼそのまま採用された。ベットは字が読めなかったが、周りの人の会話からこの法律のことを知ると、彼女は自分がもはや法律上奴隷ではないはずだと確信を持ち、町の弁護士のところに駆けつけた。

幸い、弁護士はベットに協力することにした。アシュリーのもう一人の奴隷(ブロム)も原告になり、『ブロムとベット対アシュリー事件』として裁判が行われた。「すべての人間は平等である」ことは、二人の唯一の主張ではあったが、陪審員の評決により、二人の解放は被告のジョン・アシュリーに求められた。損害賠償として、ベットには18年分の給料も要求された。

では、マサチューセッツ州の憲法に「平等」の概念が採用されたのは、王や貴族に対抗するためだったのだろうか? もちろん、それはありえない。州の憲法にはそんな相手なんてそもそもいない。言うまでもなく、それは個人的な利己心を正当化する口実でもなかった。独立宣言と同じように、マサチューセッツ州の憲法はすべての人民の権利を守るために「平等」という概念を重視していた。結果の一つとして、マサチューセッツ州は奴隷制度を廃止する始めての州となった。

奴隷解放、女性の選挙権、様々な人権の法律化……。「平等」という概念は今まで人間社会を大いに進歩させてくれた。今さら、「でっち上げた思想だ」と言って、「平等」を捨てても、ろくなことはないだろう。

2010年5月16日日曜日

トーマス・ジェファーソンと奴隷問題 (19)

ジェファーソン自身には大勢の奴隷がいたことは否定できない。こんな人物が人間の平等を唱えても、単なる偽善ではないか? やはり、アメリカという国家、アメリカという社会は、大きな嘘の上に建てられたのだろうか?

藤原氏はそう思っているようだが、ジェファーソン自身のことや独立宣言布告後のアメリカの歴史を冷静に考えた方がいいだろう。

先ず、ジェファーソンは奴隷制度廃止論を一生懸命唱えた人物でもあったことを忘れてはならない。当時、奴隷は完全な私有物として考えられていたので、いろんな意味で財産問題が絡んでいた。例えば、奴隷はローンの担保として扱われることもあったため、借金のある人は、自分の奴隷を解放したくても、借金がある限り、解放することは法律的に不可能だった。実は、ジェファーソンも正にそんな状況にあり、「奴隷を解放すべきだ」と確信を持っても、実際にはそれが出来ないため、彼は大いに悩んでいたらしい。

独立宣言の下書きを読んでみると、奴隷制度を新大陸の植民地に導入してしまったイギリスを、ジェファーソンは批判するつもりだったことがわかる。しかし、最終的には、宣言のその部分は南部の政治家の異議の下で取り消されてしまった。

とはいえ、ジェファーソンの奴隷解放運動はそこで終わらなかった。後のリンカーン大統領は別として、ジェファーソンほど奴隷解放に尽くした政治家はいなかったと言っても過言ではない。例えば、1769年(独立宣言より七年前)、ジェファーソンがバージニア州の議員として提案した州の奴隷解放令は法律になり損なったが、1778年には、ジェファーソンのおかげで、バージニア州への新奴隷売買は完全且つ永久に禁止された。

そして、1784年には、ジェファーソンが提案した「北西部条例」の一つの条件として、北西部から新しく合衆国に編集される州には、奴隷制廃止が義務付けられた。

最後に、大統領の任務中の1807年に、ジェファーソンは全国における奴隷売買の禁止令を発した。これがために、アフリカからの奴隷輸入は完全に止められた。それまでに輸入されてきた奴隷が同時に解放されなかったことは残念だったかもしれないが、更なる奴隷輸入が禁止されたことは大きな進歩だったことは否定できない。

2010年5月13日木曜日

「平等」と「自由」  (18)

「近代的な平等の概念は、恐らく王や貴族など支配者に対抗するための概念として、でっち上げられたのではないかと考えます。だからこそ、平等を真っ先に謳ったアメリカ独立宣言では正当化のために神が必要だったのです」

「国家の品格」第三章より。



ここでは、藤原氏は独立宣言の「前文」を言っているのだろう。

『我らは次の事実を諸々自明なものと解する。すべての人間は平等に創造され、作り主によって、本質的尚且つ侵すべからざる権利を与えられている。その中には、生存、自由、幸福の追求などの権利も挙げられ、これらの権利を守るためにこそ、被統治者の同意によって正当な権力を得る政府は用いられる』

アメリカ人なら誰でも小学校で暗記させられる、トーマス・ジェファーソンの名文だ。

さて、「平等」という概念を好まない藤原氏が「国家の品格」の第三章で言っているように、平等というのは、才能上、学習能力上、実際にはありえないものだから、意味のない概念なのだろうか? すべての人は同じ機会や経験を与えられないため、「平等」を夢見るのは無益な愚行だろうか? 

確かに、藤原氏が他の所で言っているように、当時のアメリカは奴隷制度の本場だった。しかも、「独立宣言」を執筆したジェファーソン自身も奴隷を所有していた。一見して「独立宣言」は矛盾だらけの偽善な文書に見える。やはり、「平等」というのは、「神」という迷信に頼ってしか正当化できない嘘なのだろうか?

言うまでもなく、私はこれもまた藤原氏のカリカチュア交じりの智子イズムだと思う。さて、それはなぜだろうか?

まず、人の才能や学習能力について言うと、それはもちろん藤原氏の言うとおりだ。ある人は美しく歌えて、ある人はまったく音痴である。ある人は計算が得意で、ある人はまったく頭が回らない。人生経験においても著しいばらつきがある。裕福な家庭に生まれる人もいれば、貧乏な一生を過ごす人もいる。良い伴侶とめぐり合う人もいれば、孤独な一生を過ごす人もいる。残念ながら、そういう意味では平等なんてものはありえないのだ。

だが、これは当たり前の現実であり、誰もが否定しないことだろう。独立宣言の前文で、ジェファーソンはすべての人間が同じ才能や学習能力をもって生まれ、同じように成長すると言っているわけがない。藤原氏だってそれを理解しているだろうが、「平等」という概念をなるべく愚かに見せるために、そんなカリカチュアを利用している。

では、独立宣言が訴えている「平等」というのは、本当はどういう概念だろうか?

それは、すべての人が法律上では、同じ価値があり、身分などによる差別はあってはならない、ということだ。それから、生まれ持った才能は何だろうと、生まれ持った知的能力はどの程度のものだろうと、誰もが自由に生き、幸福を追求する権利がある。独立宣言でジェファーソンはこういうことも訴えていたのだ。

同時に、独立宣言の平等への主張は当時のイギリスの思想であった「王権神授説」を否定する目的があった。確かにこれは王や貴族の支配への対抗を裏付ける考え方だったが、藤原氏の言う「でっち上げ」ではないだろう。どちらかといえば、繊細な理論に基づいた冷静な主張ばかりだった。「全人類の意見を尊重するならば,独立へと駆り立てた原因を宣言する必要がある」とジェファーソンが宣言で書いたように、宣言はイギリス国王に対する示威行動だったより、他の国々の人々や後世の人間(藤原氏を含め)などの理解を得るための文書だ。

独立へと追い立てられた理由は、二七個も宣言中にあげられ、中には次のようなものもある。

• イギリス国王は、植民地の公共の利益のために堅実且つ必要な法律の実現を認めなかった。

• イギリス国王は、人民の権利を主張する植民地の代議院を何度も解散した。

• イギリス国王は、植民地における司法の執行を自分の意志に依存させるために、判事の給料額や支払いを巧みに操作した。

• イギリス国王は、軍隊を管轄する権利を民間指導者から外し、民事司法を完全に軍部に委ねた。

• イギリス国王は、きちんと裁判もせずに、植民地で自分の兵隊が犯した様々な犯罪の処罰を免じた。

• イギリス国王は、植民地の人民たち自身の裁判をたびたび拒絶したり、もしくは、海の向こうにある本国へ被告を移送してから不平な裁判を行ったりもした。

でっち上げられた「平等論」ではなく、独立宣言の内容は、基本的な人権への妨害に対する具体的な訴えだった。

では、次回は奴隷問題の矛盾について考えてみよう。

2010年5月9日日曜日

自国語による文学登場 2 (17)

3182行にも及ぶ叙事詩「ベオウルフ」が書かれたのは、紀元700年頃とされている。作者が用いた言語は、5世紀半ばからおよそ12世紀まで、イングランドで使われていたアングロ・サクソン語だ。「古英語」とも呼ばれるこの言語は、現代の英語の中核として残っており、英語で最も頻繁に使われる100語の中でも、96語は古英語に由来している。I, you, heなどの代名詞、the, an, aという冠詞、 is, are, wasなどのbe動詞、一般動詞の get, come, write, goなど、前置詞の on, in, into, withなど、その他にも数多くの疑問詞、接続詞、助動詞……、英語の基本となる単語はそのまま古英語の時代から使われている。

「ベオウルフ」の他にも、石に彫られ、パーチメント(羊皮紙)に書かれ、現在残っている古英語の文書は沢山ある。韻文や詩歌だけではなく、聖書の翻訳文、聖人の伝記、神父の説教、歴史書、医学書、遺言書、公の記録(土地の売買や法律に関するものなど)、お守り、まじない……。その種類もまた豊富だ。

それぞれの文書から確認され、現代の古英語辞典に収録されている語数は二万語を超えている。日常の実用的な会話はもちろん、古英語は繊細な描写や表現を必要とする詩文にも向いていて、「ベオウルフ」はその巧みな表現力の証だ。基本的に冒険物語でありながらも、「ベオウルフ」の中には、抽象的な感情や情緒も上手く取り入れられている。城をグレンデルから守ろうとする歩哨たちの恐怖、息子を亡くす父親の悲しみ、愛国心や君子への忠誠、これらはみんな生き生きと描写されている。

こういう意味で、「ベオウルフ」は新文学の開幕を告げているのだ。冒頭にある「さて。我々は聞いている。古のデネ王家の栄光を、荒々しい勇士らの手柄を」の部分を、次のように言い換えても良いだろう。「さて、我々は、自分たちの思想・伝説・夢を、自分たちの言葉で伝える時代がやって来た! たとえば、古くからあるこの話を聞け!」

ただし、完成度の高い「ベオウルフ」は新文学時代の到来を最も強く主張しているとしても、それは決して珍しい存在ではなかった。中世は「自国語」による文学がどの地方でも芽生えた時代だ。

「ベオウルフ」のような叙事詩なら、ドイツやロシアにも、チェコやポーランドにもあった。北欧のエッダ神話の物語と詩集も、スペインの「わがシドの歌」もこの類の文学だろう。

それから、騎士道と共に現れ、中世文学や歌に大きな影響を与えたのは、数多く作られた武勲詩だ。豊かな想像力と遊び心を表すこれらの冒険物語には、恋愛、忠誠、裏切りなど、普遍的なテーマが基本となっている。様々な「アーサー王物語」やフランスの「シャンソン・ド・ジェスト」が武勲詩の代表作であり、未だに欧米人の心に深く根付いている。

イタリアのジョヴァンニ・ボッカッチョの物語集「デカメロン」には、中世独特の恋愛物語だけではなく、ペストの大流行時代における一般人の悲劇的な経験も生々しく描写されている。この本はチョーサーの「カンタベリー物語」にも大きな影響を与え、盛んに作られていたヨーロッパ諸国の文学は、互いに影響しあっていたことがよくわかる。文学による国際交流のルーツも中世にある。

ダンテ・アリギエーリの「神曲」が中世の作品だということも忘れてはならない。物語の主人公であるダンテ自身が、地獄に降りて、自分の罪に相応しい罰を受けている罪人の間を案内された「地獄篇」は、「神曲」の最も有名な部分だろう。だが、地獄篇・煉獄篇・天国篇を全部あわせた「神曲」は中世文学の最高傑作とも言える。叙事詩・武勲詩・ラテン語文学、それまでのすべての流れを受けて、絶頂に達したからである。

最後に、個人的な意見を述べるが、私にとって中世ヨーロッパ文学の何よりの魅力は、それが階級を問わず、すべての人間が参加した「大衆文化」であることだ。貴族の気高い遊びだけではなく、商売人、小百姓、軍人、修道僧……、社会の隅々から民衆の人間臭さが伝わり、中世文学は現代人の心にも直接訴える力に満ちている。

2010年5月7日金曜日

自国語による文学登場 1 (16)

「さて、我々は聞いている。古のデネ王家の栄光を、荒々しい勇士らの手柄を」。


英雄『ベオウルフ』の物語はこうして始まる。だが、一つの物語どころか、この言葉は、新しい文学時代を切り開く勇ましい喊声としても解釈することが出来よう。

とりあえず、物語のあらすじを見てみよう。

太古の昔、デネ王フロースガールは、新しい城を建設した後に、祝いの宴を催す。しかし、近くの洞窟に住む怪物、「呪われしグレンデル」は、楽しそうな祝宴の歓声と王の栄光に嫉妬して、連夜城の哨兵を襲うようになる。王に仕える剣士は何度もグレンデルに立ち向かうが、グレンデルは魔法で守られているため、勇士らはことごとく殺され、グレンデルに食べられてしまう。

12年間も続く夜ごとの虐殺の噂を聞き、海の向こうからやって来たのは、英雄ベオウルフだ。神に恵まれたベオウルフは、奇跡的な腕力でグレンデルに立ち向かい、怪物の腕をもぎ取り、討伐に成功する。フロースガール王と国の人々はベオウルフを祝福するために、感謝の宴会を開く。

だが、次の夜、グレンデルの母親である恐ろしい海の怪物が現れ、息子の復讐に挑んでくる。そのため、王の家来がまたまた虐殺されるが、ベオウルフはグレンデルの母親がひそむ海底までもぐり、彼女をも退治する。

自国へ帰り、国王となるベオウルフは50年間も政治を司り平和を保つが、その末には炎を吐くドラゴンが出現し、国を荒らしてしまう。年老いたベオウルフは死ぬ覚悟で、極悪な怪物ともう一度戦わなければならない。

最後のこの決戦の時、ベオウルフはドラゴン退治に成功するが、自分も致命傷を受けてしまったがために、国民のために命を捧げる結果となる。『ベオウルフ』物語は英雄の葬式の場面で閉幕となる。

2010年5月4日火曜日

ラテン語文学 (15)

中世の多くの書物は英語やフランス語ではなく、ラテン語で書かれている。これこそは、(日本や中国の古典に比べて)ヨーロッパの古典が少なく思われる理由の一つである。当時の国際語はラテン語だったので、自国以外の人に自分の作品を読んでもらいたければ、ラテン語で書くしかなかったのだ。現代では日本人の科学者が英語で論文を出すのとまったく同じ理由だ。

「中世のヨーロッパ人は文学的な価値のある作品を書き上げなかった」と主張するのであれば、大量のラテン語文学を無視していることになる。その中で、量と質の良さで特に目立つのは神学・哲学関係のものであり、「然りと否」などを書いたアベラールも忘れてはならない。しかし、何と言っても、ラテン語による「哲学系文学」の最高峰に立つのは、ドミニコ会員の博士、トマス・アクィナスだ。少しだけ、彼の人生と作品について述べよう。

1225年前後イタリアの貴族の家に生まれたアクィナスは、熱心な信仰心の持ち主であったため、家族の反対を押し切って修道院に入った。体が大きいアクィナスは学生だった頃には、口数が少ないため、同級生に「無口の雄牛」と、あだ名をつけられた。頭もさほど良くないと思われていたらしく、ある時、一人の上級生が親切のつもりで、論理学の基本をアクィナスに説明しようとした。しかし、自分の理解が足りなく、上級生が説明しきれない話題になってしまった時に、アクィナスは遠慮気味にその箇所を先輩に解き明かしてあげたそうだ。この時から、アクィナスは学生たちの間で少しずつ噂されるようになった。「もしかして、本当は頭がいいのではないか」と。

学生たちより確実にアクィナスの才能を認めていたのは、有名な教授、アルベルトゥス・マグヌスだった。ある日の授業中に教授は全員に向って次のように断言したそうだ。

「お前たちはこの男を『無口の雄牛』と呼んでいるが、私はお前たちに言っておく。全世界に響き渡る大声で、彼はいつかほえ出すだろう!」

教授の予言どおり、とうとうほえ出したアクィナスは、「スコラ学」の第一人者となり、アクィナスの最高傑作は、ラテン語で書いた「神学大全」である。

中世のどの哲学者も目指していたのは、信仰と理性の調和であった。言い換えれば、「聖書の言葉」と「アリストテレスの教え」の融合を求めていたのだ。その努力の結晶であった「スコラ学」というのは、特定の思想や哲学の分野ではなく、ある思考法の名称である。つまり、スコラ学は、推理の原則に従って、議論の矛盾や誤りを発見して、徐々に真理を導き出す方法だった。3000ページにも及ぶ「神学大全」はスコラ学の特徴と成果を最もよく表している書物でもある。

アクィナスが、「神学大全」の中で取り組んだ論点は三百以上ある。テーマ別にアレンジされているこれらの論点は、すべて「YES」か「NO」で一旦答えられる疑問形式で表現され、これが「神学大全」の大きな特徴である。要するに、アクィナスは「神とは何なのか」についていきなり語り出すのではなく、「神は存在するのか」、「神の存在を証明できるか」のように、大きなテーマを噛み砕き、少しずつ明確に説明するように工夫していた。

そして、それぞれのテーマを定義してから、アクィナスが先ず最初に挙げるのは、各論点に関する反対の意見だ。例えば、「神は存在するのか」という章には、最初に挙げられるのは、神の存在を否定する考え方の例とその詳しい説明だ。

いろいろな視点から反対意見を挙げてから、アクィナスが次に挙げるのは、論点を裏付ける考え方や理屈である。しかし、ここで最初に用いられるのは、アクィナス自身の思想ではなく、教父たちの言葉や聖書の引用だ。過去の学者や伝統的な教えへの深い敬意がよく伝わる。

引き続き、アクィナスはやっと自分の意見を詳しく述べるので、この部分はそれぞれの論点に対する「本文」であると言っても良かろうが、ここで終わりではない。最後にアクィナスは、もう一度反対の考えに焦点を当て、なぜそれが間違っているのか、ということについて丁寧に説明する。

言うまでもなく、智子イズムと正反対のやり方だ。

スコラ学独特のこの論法がわかりやすいため、アクィナスの言葉を読んでいると、まるで筆者と直接語り合っている気になれるのは何とも言えない楽しさがある。しかし、「神学大全」の何よりの魅力はアクィナスが選んだそれぞれの論点の内容そのものだ。

神の存在や特質、いかにもキリスト教の神学書にありそうなテーマはもちろんだが、アクィナスの志は大きく、それ以外にもかなり幅広い学術と薀蓄を披露してくれるのだ。善と悪の性質、人が目指すべき美徳・避けるべき悪徳、「正戦論」という戦争についての考え方など、アクィナスは、倫理学について鋭い評価と判断を繰り広げる。愛とは何か、憎しみとは何か、幸せや人生の目的とは何か、人類の永遠のテーマであるこれらの問題も取り上げられ、法律の基盤とは何か、不正な法律に対する対応の仕方など、かなり実践的な政治学・法律学の話も取り上げられる。認識論、美学、心理学……。アクィナスはどんな分野にも関心を寄せ、アリストテレス以来の天才だった。

本題に戻るが、アクィナスと彼が執筆した「神学大全」は、中世哲学の最も素晴らしい例だとしても、ここで認めなければならないのは、歴史の知的空白の中にアクィナスがぽつんと現れたわけではないことだ。つまり、アクィナスの前にも後にも、中世では大いに活発な研究と思考が行われていたのだ。他の思想家の哲学書や神学書も沢山あり、今日存在する中世のラテン語文学の原稿よりも、失われてしまった分の方が遥かに多いともされている。

現代人に読みやすい英語やフランス語で書かれていないがために、このような宝石の山を「文学がなかった」と簡単に否定することは大きな間違いだ。

2010年5月3日月曜日

西洋の文学 (14)

『よほどの文学好きでない限り、5世紀から15世紀までのヨーロッパの生んだ文学作品を3つ挙げられる人は少ないのではないでしょうか?
 英文学も今では威張っていますが、有史以来1500年までの間にどんな作品が生まれたか。『カンタベリー物語』ぐらいしか浮かばないでしょう。』

「国家の品格」第一章より。


「いやー、それを言うんだったら、『カンタベリー物語』ではなく、『ベオウルフ』だろう」と、これを読んだ時に私は思った。

だが、古い英文学の代表作が『カンタベリー物語』だろうと、『ベオウルフ』だろうと、藤原氏のこの考え方もまた納得できない。純粋な無知からの発言なのか、相手を悪く見せることによって日本の古典文学をより美しく見せるために利用したカリカチュアなのか、私には氏の意図がわからない。だが、氏の言葉を通してすぐに連想させられた子どもの頃の思い出がある。

「僕のお父さんは君のお父さんより強いよ。いつだって吹っ飛ばせるぞ!」

喧嘩に自信のない幼稚園児の言葉として、このような言葉はアメリカでは有名だ。悔しさのあまり、思わずこぼしてしまう父への思いも伝わり、ある意味では可愛らしいセリフかもしれない。

ところが、「我々の文化の方が、そっちの文化より古くて、立派なんだ……」のように、このセリフが進化して、文化・文明の優越主義的な思想に繋がると、その可愛さはちっともなくなる。何となく、藤原氏の発言はこのような心理から出ている気がするので、普通だったら、相手にしたくもない。だが、ここでは見てみぬ振りをしたくても、カリカチュアを正すために、反論を述べよう。

2010年5月2日日曜日

「国家の品格」について。 現代 vs 中世  (13)

こうして、案外明るかった「暗黒時代」の話をいくらでも挙げられるが、中世の暗い面も認めなければならない。貴族や庶民、すべての人を巻き込んだ戦争や、急激に広まった疫病もまた中世の大きな特徴だった。

しかし、イタリアのボローニャで起こった興味深い話を一つ挙げよう。

大人の男性一人と猫一匹を戦わせる試合が企画され、そのために大きな檻も用意されたそうだ。この檻の中で戦うため、猫は逃げられなく、男は簡単に勝つのではないかと思われるが、猫を 噛み殺す ことが決まりだった。しかも、手を一切使わずに戦わなければならなく、男の目が猫にやられれば失格となる決まりになっていた。

残酷そのものの企画だ。こんなことを考え付くことからして、当時の人間はやっぱり野蛮だったとも思われるかもしれない。ところで、この惨い戦いを目にし、驚きながらブーイングで止めさせようとした人たちもいたらしい。それはボローニャ大学の学生たちだった。

怖いもの見たさ。気持ち悪いもの見たさ。このような歪んだ好奇心はどんな時代にもあるようだ。例えば、最近は拷問や人殺しを見せ物にする日本やアメリカのホラー映画は、これと同じ心理から生まれ、偽物とはいえ、「猫対決」の話を遥かに超える恐ろしさがあるとも言えるだろう。

もっと大きく言えば、戦争もまたどの時代にも起こるが、中世どころか、20世紀の戦争こそが人類の歴史の中でもっとも恐ろしい戦争だったとも言える。強制収容所・大量虐殺・民間人を巻き込む空襲・毒ガス・生物兵器……。これらはすべて我々の時代の出来事である。

下品で暴力的な見せ物にしろ、国の政策として行われる戦争にしろ、争いを亡くす努力があるとすれば、その第一歩は個人個人の反対の声だろう。そして、もしそうだとすれば、我々は「暗黒時代」の学生たちから未だに学べることがあるようだ。

疫病についても、一つ言えることは、当時のどこの国や地方でも同じ状況だったことだ。例えば、カール大帝と同じ時代の日本では、天然痘が流行って数多くの人々が犠牲者となった。島国の日本でも、ワクチンや抗生物質が発明される以前の世の中は至って危険な場所だったわけだ。中世ヨーロッパは、領土も広く、民族同士の交流が盛んだった。中近東・アフリカ・アジアとの貿易などもあり、逆に言えば、疫病の広まりがなかったならば、その方が不思議だろう。

ちなみに、現代医学の奇跡的な発展にもかかわらず、過去30年間で25,000,000人以上のエイズ患者が死亡している。平成2年にはHIV感染者は8,000,000人だったが、20年後の平成22年はどうかと言うと、感染者はなんと33,000,000人にまで上昇している。エイズで親を亡くしたアフリカの孤児は14,000,000人を越えている。

過去を「暗黒時代」と呼び、馬鹿にする資格は本当に我々にあるのだろうか?

過去についての悪質なカリカチュアは、我々現代人のためになるのだろうか?