2010年6月23日水曜日

アメリカと中国の 「恋愛関係」 1 (28)

日米戦争の原因について、まず注意を払いたいのは、当時のアメリカと中国の意外に親密だった関係だ。

「恋愛関係」とは、妙な例えであると思われるかもしれないが、実際には、恋人というのは、相手に対する強い執着を抱きながらも、互いに理解し合えなかったり、傷つけ合ったりする、不思議なやり取りのある関係でもある。アメリカと中国も正にそのとおりだった。日米の場合を遥かに超えるような移民問題があったこと、中国が共産主義国家になった後には、正式な外交がすべて断たれてしまったこと、朝鮮戦争の際、実際に交戦までしてしまったことなど、これはすべて一般に知られているが、ここでは、この「離婚」の前の関係に焦点を当てよう。

1884年2月に、アメリカと中国は「望厦(ぼうか)条約」を結んだ。治外法権などの条件もあり、不平等条約だったという解釈もあるだろうが、ここでは、法律や貿易関係の条件より大切なのは、アメリカに譲られた他の種類の特権だ。

その一つは、中国語の学習に関することである。当時、中国国内では、外国人が中国人の教師から中国語を直接学ぶことは禁止されていた。だが、この法令は望厦条約により廃止となった。

もう一つ大切だったのは、五つの条約港で土地を借り、「病院・教会・墓地」を建てる権利がアメリカ人に始めて与えられたことだ。

どちらも、今考えれば、当たり前の権利のように思われるが、この二つの特権はその後の中国とアメリカの関係に画期的な影響を与えた。つまり、それまでブレーキがかかっていたアメリカ人宣教師による布教活動は一気に開放期を迎えた。これこそが、アメリカが中国に恋した瞬間である。

中国で働くアメリカ人宣教師は徐々に増え続け、1920年代になると、その数は6,600人を超えていた。中国の莫大な人口と面積を考えると、「6,600人? 大した人数じゃないな」とも言えるが、問題は宣教師が中国で挙げた布教の成果だけではない。つまり、数十年にわたり、何千人もの熱心な宣教師は、本国のアメリカでも活動していた。中国で病院・学校・教会などを建設するための募金活動がアメリカ国内で行われたし、宣教意識を高めるために、数多くの説教や著書がアメリカの会衆に向けられた。協力を得るために、政治家への呼びかけも盛んに行われた。このような活動によって多くのアメリカ人は宣教師に影響され、ある意味では、中国での成果より、宣教師たちがアメリカで挙げた成果の方が著しかった。

中国におけるYMCA(キリスト教青年会)活動の話もある。1922年までに36都市に支部が設置され、YMCA会員は54,000人にまで上っていた。YMCAの職員の半数以上は中国人だった。公衆衛生や反アヘン運動に力を入れながら、YMCAは様々な教育活動に積極的に取り組んでいた。国際問題にも関心を示し、満州事変勃発後の1931年には、中国YMCA会長だったデヴィッド・ユイは、ワシントンDCまで行き、日本軍による満州占領の不義を訴えた。

宣教師夫婦の娘であり、中国で育った小説家パール・S・バックの活躍も忘れてはならない。ピューリッツァー賞およびノーベル文学賞を受賞した彼女が常に作品のテーマにしていたのは、中国農民問題や貧困に耐える孤児の体験だった。1931年に書かれた作品『大地』が1,500,000部も売れたことは、一般のアメリカ人が中国に対して強い関心を抱いていたことを示すだろう。同小説は、1937年に映画化され、23,000,000人のアメリカ人が観に行ったそうだ。中国で活動する様々な慈善事業団体もバックによって設立された。

では、アメリカの中国に対する情の深さは、日米関係にどのような影響を及ぼしたのだろうか? 

2010年6月17日木曜日

移民問題と関東大震災 (27)

前回、移民問題の話が出たが、それは、世界の舞台で活躍し始めた大日本帝国を、アメリカの国民が案外好意に思っていたにもかかわらず、アメリカ国内で起きた残念な問題の一つである。具体的に言うと、サンフランシスコの公立小学校で、日系人学童の登校が急に拒否され、そのことが国際問題にまでエスカレートしてしまったわけだ。
 
当時、日本からの移民だけではなく、多くの国々からの移民をアメリカは制限し始めていた。だが、サンフランシスコで起きたこの事件がきっかけとなり、日米関係が特に揺らいでしまった。やがて行われた日米交渉の結果、移民問題は1907年に結ばれた「日米紳士協約」で一旦けじめをつけられた。妥協の内容は、「新しい移民を受け入れないが、既にアメリカに住んでいる日系人の親族だけは受け入れる」という体制だった。ちなみに、合衆国政府の圧力により、アジア人専用の小学校へ一時的に通わせられていたサンフランシスコの学童たちは、再び一般の公立学校へ通わせてもらえた。

幸いなことに、移民問題と対照的だったのは、関東大震災時のアメリカ人の反応だった。当時の新聞でその様子を見てみよう。

震災のおよそ二週間後の1923年9月14日、「サンフランシスコ・クロニカル」の一面には、震災の様子が詳しく述べられている。そして、第二面には、横須賀、大磯、小田原までの広範囲で、死者や負傷者の人数や破壊された家数などが詳しく挙げられるとともに、このような報告も掲載されている:

『海軍輸送船、ベガ丸の士官によると、当船は来週の火曜日に出港し、神戸へ向って直行する。救助物資を一刻も早く被災地に届けるために、船はホノルルに寄らず、アリューシャン列島の南部を経由して日本へ向う。5,500トンの米の他に、缶詰のサーモン、エバミルクなど、サンフランシスコで集められた大量の食料もベガ丸によって運ばれる。フォート・メーソン基地より毛布も寄付されている』

移民問題発祥の地であったとはいえ、十数年前に自分たちも大地震を経験したサンフランシスコの人々は、やはり日本人の被災者に同情したのだろう。サンフランシスコから出港するベガ丸を誇りに思っていただけではなく、カリフォルニア各地で民間人の募金活動が盛んに行われ、「○○市は募金のノルマを達成し、○○郡はノルマまであと少しだ」という記事も二面に掲載されている。

いきなり話を大きな国際問題に戻してしまうことになるが、後にイギリスの首相となったウィンストン・チャーチルの次の言葉を挙げよう:

『名誉ある古代国家に対する、エネルギー溢れる日本人の愛国心は立派であり、イギリスでも、日本の立場を理解してあげる努力が必要だ。日本の片方にあるのは、挑発的なソビエトロシアであり、もう片方にあるのは、混沌状態に陥っている中国だ。しかも、その中国の四・五州は既に共産主義の支配下で苦しんでいる』

これはただでさえ、日本を強く支援する言葉である。だが、日本軍による満州全土の占領に繋がった「満州事変」勃発から一年以上も経った1933年の発言であると思うと、その時点でさえまだ余裕があり、「日本・アメリカ・イギリスという三国は協力し合えば、その後の戦争を避けられたはずではないか?」とまで考えさせる言葉だ。

日露戦争後、大日本帝国とアメリカ合衆国を太平洋戦争に至らせた過程とは、いったいどんなものだったのか? 次回はそのことに触れてみよう。

2010年6月10日木曜日

当時のアメリカ人・イギリス人は日露戦争をどう思ったのか (26)

「武道精神は戦後、急激に廃れてしまいましたが、実は既に昭和の初期の頃から少しずつ失われつつありました。それも要因となり、日本は盧溝橋事件以降の中国侵略という卑怯な行為に走るようになってしまったのです。『わが闘争』を著したヒットラーと同盟を結ぶという愚行を犯したのも、武道精神の衰退によるものです。

私は日露戦争および日米戦争は、あの期に及んでは独立と生存のため致し方なかったと思っています。あのような、戦争の他に為すすべのない状況を作ったのがいけなかったのです」

『国家の品格』 第一章より



「日米戦争」の話を一旦置いておいて、「日露戦争」についてまず考えよう。

日露戦争に関しては、「日本の独立と生存のための戦いだった」という考え方を持つ当時の欧米人も多かった。特に好意的な態度を示したのは、日本の陸軍と共に行動し、日露戦争を最前線で見たイギリス人観戦武官たちである。

早速、観戦武官の一人、イヤン・ハミルトンが著した本を見てみよう。『日露戦役観戦雑記』は、終戦早々の1905年に出版され、二巻で合わせて900ページ以上の長編随筆である。ハミルトンは、黒木為楨大将などと接しながらも、一般の兵隊との交流を大切にし、豊かな表現力で自分の体験を記録した。日本軍の将校たちの威厳ある振舞い、兵隊一人ひとりの勇敢な戦いぶり、日本人の愛国心と武士道へのこだわり…。ハミルトンは、明治維新以来、急激に現代化してきたにもかかわらず、古代文化独特の良さを保ち続ける日本陸軍に大変感心したようだ。

第二巻の前書には、ハミルトンはこのように記している。

『私は自分の見聞きしたことをそのまま書くことしか出来ない。理解するかしないかは読者次第である。しかし、感性が深ければ深いほど、読者は黒木大将が率いる全ての兵隊を活気付けた偉大なる愛国心に共感するに違いない』

『日露戦役観戦雑記』の内容にまた触れる機会はあるかと思うが、武士道などにこだわるハミルトンの哲学的な随筆に比べて、日本軍の戦果をとにかく熱狂的に賞賛する書物もあった。

例えば、『The War Between Japan and Russia』は、「シカゴ・クロニカル」(新聞)の編集者を務めたリチャード・リンシカムと特派員のトランブル・ワイトによる共著作品である。戦争がまだ終わらない1905年上旬にこの本は出版されたため、旅順開城までの戦史しか掲載されていない。だが、すべての記事において、両著者は日本への熱烈な好意を表している。『The War Between Japan and Russia』の締め言葉である次の文章で、全体の格調がうかがえる。

『旅順開城は、一年にも及ぶ奮闘の画期的な出来事であった。そして、破砕された塁壁の上に空高く上げられる日の丸を、万国から眺める各々の民は、平和な将来を約束する曙として受け止めた』


戦時中及び戦後のアメリカの新聞記事も、国民の日露戦争への高い関心を表している。ここでは、二つだけの例を挙げよう。

1904年7月1日、「ワシントン・ポスト」の一面には、魚雷攻撃を受けた日本軍の最新情報と同時に、「Rabbis on Eastern War」という見出しで、こんな記事が取り上げられている。

『日露戦争について、ユダヤ教改革派の考えは次のように会議報告書で述べられている:

「私達は、(敵が滅びても、勝ち誇ってはならない)という聖典の教えを忘れてはならない。だが、独裁政治の破滅はその不正な行いによる当然な結果であることも、この戦いの大切な教訓であると言えよう」』


当時のロシアでユダヤ人が受けていた迫害を訴えながら、アメリカのラビたちの言葉はその後も続くが、ここで注意したいのは、ロシア軍にとっての悪戦況は『独裁』の当然の報いであるという考え方だ。これは、アメリカの社会において、決して珍しい考え方ではなかったようだ。例えば、『The War Between Japan and Russia』の序文には、次のような言葉があり、多くのキリスト教徒もユダヤ教改革派と同じ考え方をしていたことがわかる。

『確かに日本はキリスト教の国ではない。仏教など、我々から見れば異教の宗教が主流である。だが、日本においては、思想も言論も宗教も自由である。信仰及びその普及を妨害する規制はまったく存在しなく、日本の政権下ではキリスト教の宣教師も自由に働ける。人権や所有権も、ロシアと違って、日本では保障されている。自由・正義・教育・努力、キリスト教の真髄と言うべきものが、日本独特の精神にも数多く含まれており、巨大な敵国であるロシアよりも、日本こそがこうした真理を大切にしていると言っても良かろう』

二つ目の新聞記事は、フランスの政治家の珍奇な発言についての報告である。1908年1月11日、移民問題で日米関係が乱れ出した中、ルシエン・ミルヴォイは、イギリスとフランスこそが外交を通して日米の和解を実現させる義務があると主張した。そのうえ、その責任を逃れようとするイギリスを批判し、同時に日露戦争の責任をイギリスに負わせようとしている。

『ルシエン・ミルヴォイ氏は、日露戦争勃発の責任は英国にあると主張する。そして、「満州を墓地化した」あの大戦に相次ぐ「世界を震えさせる、新たな忌まわしい戦争」を望んでいるのかと、英国に問い詰めている:

「アメリカ対日本の戦争を煽り立てれば、両国が潰れた後に、極東アジアを支配できるなどと、英国人は考えてはならない。そうした場合、インダス川からアムール川まで、アジア諸国の民族も立ち上がって抵抗するからだ」』


ヨーロッパ人によるこんな発言が「ワシントン・ポスト」で話題にされたことは、日露戦争についての関心が高く、いろいろな視点から盛んな議論が終戦後にも為されていたことを示す。「イギリスは日露戦争を引き起こしただけではなく、今度は、日米移民問題を煽り立て、日本とアメリカを戦争に追いたてようとしている」という至ってでたらめな陰謀論でさえ、アメリカの新聞で注目されるほどだった。

2010年6月4日金曜日

帝国主義の本質とは (25)

さて、誤った論理への執着でなければ、帝国主義の本質とは、いったいどんなものだったのか? 

その答えは、前回引用したホブソンの言葉にあると私は考える。つまり、「国際問題において、どの国も軽率で利己的な主張をする傾向がある」。これこそが、帝国主義が生んだ様々な野望と残虐行為の本質を解く鍵だ。

『帝国主義論』の中で、ホブソンが特に批判しているのは、貪欲な資本家たちである。国全体の長期的な利益を考えず、資本家たちは自分たちの欲を満たすために、国の政策を操り、世論を乱し、常に帝国の更なる膨張を要求してきた。つまり、帝国主義の本質は至ってわかりやすい「人間の強欲」である。

トマス・モアのこの言葉も挙げられるだろう:

「どこを見ても、必ずいるのは、「国家のため」という口実で、自分の利益をひたすら追い求める金持ちだ」

帝国主義とその時代の複雑な歴史を「論理馬鹿仮説」で片づけようとするのは、あまりにも非現実的な考え方だ。大英帝国ほど大きな国家を動かしたのは、一つの論理ではなく、数百年の間に生まれてきては、成長したり、研究したり、戦ったりする人間たちだった。何世代にもわたる国民の一人ひとりが、「イギリス」という社会に独特な影響を与えた。夢・信仰・欲望に満ち、一人ひとりの心に慈愛も忍耐も憎しみもあった。失敗することもあれば、見事に自分の目標を達成することもあった。

国家・国体・歴史そのものに染み込んで、すべてを包み、すべてに共通した影響を与え続けるものがあるとすれば、それはけっして一つの理論ではなく、全人類の根本的な人間性である。誰にでもある本能的な欲望、潜在意識の中の原始的な感情、こういうものこそが私たちの性格の元素であり、行動のきっかけでもある。言い換えれば、私達は皆一つの人間性の分身である。

この人間性は社会全体の働きにも現れる。輝かしい進歩も、惨い戦争なども、この人間性を持つ結果である。したがって、藤原氏が説く「論理馬鹿仮説」のような思想は、直感・感情・本能の力を無視しているので、医者の誤った診断のようなものである。

エイズ患者の免疫組織が弱っていることに気を留めず、医者はそのときそのときの発熱に一時的な対応しか取らなかったならば、その患者の寿命は著しく縮むだろう。ましてや、社会全体の「病気」を治療しようとするのであれば、その病気の全体像をしっかりと把握した上でないと、治療はうまくいかないだけではなく、実際に悪化させる可能性も充分にある。

2010年6月1日火曜日

イギリスの帝国主義 2 (24)

『領土を更に増やす政策だろうと、既に占領している広大な熱帯地を積極的に開発するだけだろうと、「帝国主義」によって確実にもたらされるものは、軍国主義と、破滅を招く大戦争だ。その事実はもはや明らかである。我々は世界各国を支配することは確かに出来るようだが、条件として、我々は跪いて、モレクを礼拝しなければならない』

ジョン・アトキンソン・ホブソン(経済学者)、『帝国主義論』より



モレクは、旧約聖書に記録されている(ユダヤ人から見た)異教徒の神である。牛の頭をした男性神で、その崇拝の特徴は人身御供だった。特に新生児や幼児が生贄にされていたようだ。ローマと対立した古代帝国カルタゴでも、モレク崇拝が行われ、600年間で、20,000人以上の子どもが生贄にされたと思われる。

「イギリスの帝国主義はモレク崇拝に等しい」。こう叫んでいたホブソンは、物凄い表現力に恵まれた人物だったようだが、少数派の目立たない人物だったら、一般のイギリス社会における影響力は無かったのかもしれない。ホブソンはいったいどんな人だったのだろう?

実は、ホブソンもまたかなりの大物だ。二十世紀を代表する経済学者ジョン・メイナード・ケインズは、自分の著作の中でホブソンを引用するほどであり、ロシアのレーニンもホブソンの影響を大いに受けた。日本でも、ホブソンは一般に知られていたようで、1897年から1933年まで、『帝国主義論』を含め、ホブソンの書物は9冊も和訳され、岩波書店などから出版された。

『帝国主義論』で、ホブソンは以下の点で帝国主義を批判している:

• アフリカ大陸や他の熱帯地方におけるイギリスの植民地は、本国に経済的な利益をもたらす見込みはまったくない。しかも、自立国家となり、貿易以外の形で帝国に奉献することも期待されない。

• オーストラリアやカナダと違って、熱帯地方などの植民地は、イギリス人の移民の対象国にもならない。

• 帝国の各地で起こる紛争に巻き込まれ、イギリスは常に経済的な損を受け、国家の名誉や品性も、不道徳な戦争によって損傷を受けている。

• 1870年から1900年の間に、膨張する大英帝国に対する不信や敵意はヨーロッパ諸国において勢力を増し、外交も貿易も悪影響を受けている。

• ヨーロッパ諸国の敵意がこうして高まる中、軍事支出も増える一方である。これが国全体の不景気に繋がる時はやってくるはずだ。

• 途上国の開発を、日本・フランス・ロシアなどの帝国に任せても、将来的にそれはイギリスの繁栄にも繋がる。イギリスは自ら携わる必要はない。

• やたら国境を広めようとすることは野蛮な行為であり、国内の資源を生かしながら貿易に専念することこそは、正当な経済活動である。

  藤原氏が言うように、イギリスは帝国主義独特の「論理」に幻惑されていたどころか、帝国主義の「非合理」がどれだけイギリスで議論されていたかは、ホブソンの思想によって明らかである。

『帝国主義論』のこの言葉も引用しよう:


『アフリカやアジアの植民地をめぐる争奪は、ヨーロッパ各国の政策を左右している。共通の歴史や自然な同情とまったく関係ない同盟が結ばれている。どの国にも莫大な軍事支出が背負わせられている。アメリカ合衆国も、伝統である孤立主義を捨てざるを得ない状況となり、この紛争に巻き込まれてしまった。植民地の争奪が起こす外相問題の数が多く、スケールも大きい。急激に現れるこれらの問題は人類の進歩を絶えず妨害し、平和そのものを威嚇する存在である。

国際問題においては、どの国も軽率で利己的な主張をする傾向がある。しかし、世界各国が生活必需品確保の上で相互依存している現代においては、上記のような争奪を国際関係の標準として受け入れることは、文明そのものを危険にさらす愚かな行為である』