形の多様性に富む世界の文学が、どのように共通した情緒に取り組んできたかを、具体的な例で見てみよう。
先ずは、古今和歌集から一遍の和歌を挙げよう:
世のなかは 夢かうつつか うつつとも 夢とも知らず ありてなければ
(世の中は、夢なのか、現実〔うつつ〕なのか、これは何とも言えない。全てがあってないような存在だからだ)
「よみびとしらず」による歌とはいえ、多くの人が考えてきたことだろう。シェイクスピアも次のような言葉を残している:
We are such stuff,
as dreams are made on; and our little life
is rounded with a sleep.
(我々は夢と同じ物で作られ、この儚い命は眠りに終わる)
古代ギリシア人、ピンダロスの詩では、同じ情が次のように表現されている:
人の命は一日限りの儚いものだ。人間とは、いったい何物だろう?
その存在をどう定義するか?
人は、夢の中の影だ。
最後に、李白の言葉を挙げよう:
處世若大夢 胡為勞其生
(この世にあるのは、大きな夢を見ているようで、儚く短い存在だ。ならば、必要以上に苦労しない方がいいだろう)
和歌を詠んだ詩人は、老荘思想もしくは仏教の影響を受けていたという説はあるが、シェイクスピアはどうかというと、演劇の独特な儚さに刺激されているようだ。脚本家ならではの話だ。
ピンダロスの詩はやはり古代ギリシアの思想に影響されている。格闘技の試合に優勝した若者を一旦褒め称えてから、彼は上記の言葉で締め括っている。どんな名声も儚いものであり、そもそも人間そのものも儚い存在であると。
そして、李白の詩の続きを読むと、酒豪だった彼は、「どうせなら今のうち楽しまなきゃ。酒だ!」と酔っ払って、しばらく道端で倒れてしまうのだ。しかし、目が覚めると、鶯の声を聞き、「このまま大自然に溶け込んでいきたいな」という無我の境地に至らせられる。
それぞれの詩は人生の儚さをテーマにし、その儚さに対する作者自身の「反応」ではあるが、きっかけとなった根本的な「感情」は全く同じだろう。
2010年8月14日土曜日
2010年8月5日木曜日
もののあわれ (35)
それぞれの文化が生み出した文学には、形式上の違いはあっても中身にはさほどの違いはない。どこの国の詩歌にも、人生の儚さが歌われ、移り変わる季節の美しさや故郷への懐かしさも歌われる。月・山・動物・虫……、どれも普遍的なモチーフである。
藤原氏は「もののあわれ」こそが、日本人ならではの美しい情緒であり、洗練されたこの美学こそ世の中が必要としているものだと主張する。美しい情緒などが世を救えるかどうかを考える前、とりあえず、「もののあわれ」というのは、そんなに珍しい情緒かどうかについて考えてみよう。
「『もののあわれ』に相当する英単語はなく、平安時代の和歌を英訳しようとする人は大変苦労する」。こうした理屈で、藤原氏は欧米における「もののあわれ」の理解が乏しいと主張している。しかし、そんな主張は、英語と言語学そのものに対する理解の足りなさを表しているだけではないだろうか?
実のところ、「ありがとうございます」や「どういたしまして」も、本来の意味をよく考えれば、ぴたりと当てはまる英単語は無いのだ。だが、「Thank you」と「You're welcome」で充分間に合っている。藤原氏のように、直訳にこだわることは下手な翻訳法だ。
英語には、二十五万以上の単語があり、これに熟語・専門用語・方言などをあわせると、総単語数は七十五万まで上るとも言われる。世界中の言語の中で最も多い単語数であるとされることもある。それだけの薀蓄を持ちながらも、誰もが経験するはずの「情」を表現できなかったら確かに困る。だが、実際には何の問題も無い。
まず真っ先に思いつくのは、「ephemeral」という形容詞だ。ギリシア語の「エフェメロス」という語に由来し、「一日だけ存在する」という意味から転じて、「儚い」や「短命である」などの意味をもつようになった。もちろん、形容詞としてどんな名詞を修飾しても良いから、英語では、ephemeral life, ephemeral joys, ephemeral beauty などの言い方がたくさんある。一日しか生きられない短命な虫や花にも使われる。響きが綺麗で、なかなか立派な言葉だ。
意味が似ていても、「transient」や「evanescent」という形容詞には、「ephemeral」とは微妙に異なったニュアンスがある。そして、語尾を変えれば、名詞として使えるので、さらにたくさんの表現が出来る。
この他にも、「transitory」、「fleeting」、「impermanaent」、「 momentary」、「 unenduring」などの言葉もあり、「もの」「の」「あわれ」のように、複数の単語を組み合わせようとすれば、巧みな表現がいくらでも出来る。
どちらかといえば、「よろしくお願いします」のような決まり文句の方が英語に翻訳しにくいだろう。主語も目的語も省略されているからだ。だが、いくら「日本的」な美学要素とはいえ、「もののあわれ」は、英語に翻訳しにくい言葉であるとは私は思えない。
「いや、そうじゃなくて、『もののあわれ』という言葉ではなく、『もののあわれ』という雰囲気を描くこと、『もののあわれ』という描写そのものは英語に翻訳しにくい」と言われても、私は納得しない。元の詩がよく出来ていれば、そのまま翻訳すれば良い。「もののあわれ」は万国共通の情緒の一つであるから、わかる人はわかる。
次回、形の多様性に富む世界の文学が、どのようにして共通した情緒に取り組んできたかを、具体的な例で見てみよう。
藤原氏は「もののあわれ」こそが、日本人ならではの美しい情緒であり、洗練されたこの美学こそ世の中が必要としているものだと主張する。美しい情緒などが世を救えるかどうかを考える前、とりあえず、「もののあわれ」というのは、そんなに珍しい情緒かどうかについて考えてみよう。
「『もののあわれ』に相当する英単語はなく、平安時代の和歌を英訳しようとする人は大変苦労する」。こうした理屈で、藤原氏は欧米における「もののあわれ」の理解が乏しいと主張している。しかし、そんな主張は、英語と言語学そのものに対する理解の足りなさを表しているだけではないだろうか?
実のところ、「ありがとうございます」や「どういたしまして」も、本来の意味をよく考えれば、ぴたりと当てはまる英単語は無いのだ。だが、「Thank you」と「You're welcome」で充分間に合っている。藤原氏のように、直訳にこだわることは下手な翻訳法だ。
英語には、二十五万以上の単語があり、これに熟語・専門用語・方言などをあわせると、総単語数は七十五万まで上るとも言われる。世界中の言語の中で最も多い単語数であるとされることもある。それだけの薀蓄を持ちながらも、誰もが経験するはずの「情」を表現できなかったら確かに困る。だが、実際には何の問題も無い。
まず真っ先に思いつくのは、「ephemeral」という形容詞だ。ギリシア語の「エフェメロス」という語に由来し、「一日だけ存在する」という意味から転じて、「儚い」や「短命である」などの意味をもつようになった。もちろん、形容詞としてどんな名詞を修飾しても良いから、英語では、ephemeral life, ephemeral joys, ephemeral beauty などの言い方がたくさんある。一日しか生きられない短命な虫や花にも使われる。響きが綺麗で、なかなか立派な言葉だ。
意味が似ていても、「transient」や「evanescent」という形容詞には、「ephemeral」とは微妙に異なったニュアンスがある。そして、語尾を変えれば、名詞として使えるので、さらにたくさんの表現が出来る。
この他にも、「transitory」、「fleeting」、「impermanaent」、「 momentary」、「 unenduring」などの言葉もあり、「もの」「の」「あわれ」のように、複数の単語を組み合わせようとすれば、巧みな表現がいくらでも出来る。
どちらかといえば、「よろしくお願いします」のような決まり文句の方が英語に翻訳しにくいだろう。主語も目的語も省略されているからだ。だが、いくら「日本的」な美学要素とはいえ、「もののあわれ」は、英語に翻訳しにくい言葉であるとは私は思えない。
「いや、そうじゃなくて、『もののあわれ』という言葉ではなく、『もののあわれ』という雰囲気を描くこと、『もののあわれ』という描写そのものは英語に翻訳しにくい」と言われても、私は納得しない。元の詩がよく出来ていれば、そのまま翻訳すれば良い。「もののあわれ」は万国共通の情緒の一つであるから、わかる人はわかる。
次回、形の多様性に富む世界の文学が、どのようにして共通した情緒に取り組んできたかを、具体的な例で見てみよう。
2010年7月26日月曜日
「日の下には新しいものは無い」 (34)
旧約聖書には、こういう言葉がある。
世は去り、世はきたる。
しかし、地は永遠に変わらない。
日はいで、日は没し、
その出たところに急ぎ行く。
風は南に吹き、また転じて、北に向かい、
めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。
先にあったことは、また後にもある。
先になされたことは、また後にもなされる。
日の下には新しいものはない。
「何となく悲観的だな」と、この箇所を好まない人はいるようだが、私は昔から気に入っている。非常に現実的な思想だからだ。
しかも、「天(あめ)が下のすべての事には季節があり、すべての業には時がある」という有名な言葉も、この後に続く。「悲しむに時があり、踊るに時がある」、「愛するに時があり、憎むに時がある」、「戦うに時があり、和らぐに時がある」などがその一部だ。つまり、「日の下には新しいものはない」という考え方は、悲観的どころか、人間のなすべき業には目的も意義もあり、大いに励むべきであることを訴えている。ただ、「これは新しい! これは珍しい!」と考えることは、高慢な態度と傲慢な行いに繋がるから危険だ。
文学評論家の中には、小説の筋立ては非常に限られていると主張する人がいて、その筋立ては合計三パターン、七パターン、三十六パターン……、といった具合にいろいろな考え方がある。「人間vs人間」、「人間vs自分」、「人間vs自然」、「人間vs神」などという大雑把な分野に、どの物語も当てはまると主張する人もいれば、「愛、裏切り、追求、脱出、和解……」などと、テーマ別に詳しく分類する人もいる。
ある意味、こんな評論はまったく意味のない考え方だ。すべての音楽だって、「ド、レ、ミ、ファ、ソ……」という至って限られた要素で出来てはいるが、その組み合わせは実に無限である。「物語」についても同じことが言えるだろう。
ところが、小説の中だろうと、現実の世の中だろうと、人の経験し得る事は、どの世代においても、どの国においても、基本的に共通していることを理解することは大切である。そういう意味では、評論家たちの思想も「日の下には新しいものはない」という考え方に近いかもしれない。
では、ここで私が付け加えたいのは、経験の種類が限られているだけではなく、その経験を通して呼び起こされる「感情」も大して変わらないことだ。
ある人種の抱く感情には、他の人種の抱く感情と「根本的な違いがある」と主張することは、「日の下には新しいものはない」原則を否定することになり、傲慢どころか、何となく馬鹿げている気までする。まるで、イタリア人の体によるスパゲッティの消化と、中国人の体による酢豚の消化に大きな違いがあると言っているようだ。
つまり、どこの国の人も、食事をしたり、病気になったり、恋人を愛したり、友人の死を悲しんだり、いずれは自分も死ぬ。そして、どこの文化にも、これらのことに対する習慣が古代より築き上げられている。食事の作法、交際と結婚の決まり、葬式のしきたりなどがその代表的な例である。だが、どの民族も、食べる時の嬉しさや満腹感は変わらない。病気の苦しみも変わらない。愛の喜びと不安も変わらなければ、死別の辛さも変わらないだろう。
「もののあわれ」などは日本人ならではの珍しい情緒であり、「このような情緒こそは世の中が必要としているものだ」と、藤原氏は『国家の品格』で主張している。
だが、「もののあわれ」などは、本当に氏の言うほど珍しいものなのだろうか? もし万国共通の情緒であるなら、そんなものは本当に世界を救えるのだろうか?
世は去り、世はきたる。
しかし、地は永遠に変わらない。
日はいで、日は没し、
その出たところに急ぎ行く。
風は南に吹き、また転じて、北に向かい、
めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。
先にあったことは、また後にもある。
先になされたことは、また後にもなされる。
日の下には新しいものはない。
「何となく悲観的だな」と、この箇所を好まない人はいるようだが、私は昔から気に入っている。非常に現実的な思想だからだ。
しかも、「天(あめ)が下のすべての事には季節があり、すべての業には時がある」という有名な言葉も、この後に続く。「悲しむに時があり、踊るに時がある」、「愛するに時があり、憎むに時がある」、「戦うに時があり、和らぐに時がある」などがその一部だ。つまり、「日の下には新しいものはない」という考え方は、悲観的どころか、人間のなすべき業には目的も意義もあり、大いに励むべきであることを訴えている。ただ、「これは新しい! これは珍しい!」と考えることは、高慢な態度と傲慢な行いに繋がるから危険だ。
文学評論家の中には、小説の筋立ては非常に限られていると主張する人がいて、その筋立ては合計三パターン、七パターン、三十六パターン……、といった具合にいろいろな考え方がある。「人間vs人間」、「人間vs自分」、「人間vs自然」、「人間vs神」などという大雑把な分野に、どの物語も当てはまると主張する人もいれば、「愛、裏切り、追求、脱出、和解……」などと、テーマ別に詳しく分類する人もいる。
ある意味、こんな評論はまったく意味のない考え方だ。すべての音楽だって、「ド、レ、ミ、ファ、ソ……」という至って限られた要素で出来てはいるが、その組み合わせは実に無限である。「物語」についても同じことが言えるだろう。
ところが、小説の中だろうと、現実の世の中だろうと、人の経験し得る事は、どの世代においても、どの国においても、基本的に共通していることを理解することは大切である。そういう意味では、評論家たちの思想も「日の下には新しいものはない」という考え方に近いかもしれない。
では、ここで私が付け加えたいのは、経験の種類が限られているだけではなく、その経験を通して呼び起こされる「感情」も大して変わらないことだ。
ある人種の抱く感情には、他の人種の抱く感情と「根本的な違いがある」と主張することは、「日の下には新しいものはない」原則を否定することになり、傲慢どころか、何となく馬鹿げている気までする。まるで、イタリア人の体によるスパゲッティの消化と、中国人の体による酢豚の消化に大きな違いがあると言っているようだ。
つまり、どこの国の人も、食事をしたり、病気になったり、恋人を愛したり、友人の死を悲しんだり、いずれは自分も死ぬ。そして、どこの文化にも、これらのことに対する習慣が古代より築き上げられている。食事の作法、交際と結婚の決まり、葬式のしきたりなどがその代表的な例である。だが、どの民族も、食べる時の嬉しさや満腹感は変わらない。病気の苦しみも変わらない。愛の喜びと不安も変わらなければ、死別の辛さも変わらないだろう。
「もののあわれ」などは日本人ならではの珍しい情緒であり、「このような情緒こそは世の中が必要としているものだ」と、藤原氏は『国家の品格』で主張している。
だが、「もののあわれ」などは、本当に氏の言うほど珍しいものなのだろうか? もし万国共通の情緒であるなら、そんなものは本当に世界を救えるのだろうか?
2010年7月17日土曜日
民主主義 vs ファシズム (33)
四人とも任期が長く、相当な権力の持ち主だったので、アドルフ・ヒトラー、東條英機、ルーズベルト大統領、チャーチル首相を、藤原氏は同じように扱っている。違いがあっても、それは「形式的なこと」であり、独裁は独裁であるそうだ。
これは、一つ・二つの特徴だけにこだわり、それ以外のことをすべて無視する場合、いかに愚かな判断が下されてしまうかがよくわかる例だ。
「みんな果物で、しかも甘酸っぱいから、パインアップル、ブルーベリー、スターフルーツ、ミカンには、違いがあっても、それは形式的なことだ」と言っているような話だ。気候条件と栽培法、食べ方・料理法、細かい栄養素、値段、大きさ、色……、これを全部無視すれば、それは言えることかもしれないが、そうすれば、もはや意味のない発言になってしまうだろう。
同じように、上記の四人を一緒にするには、無視しなければならない事柄が実に多い。政府・政権そのものの成り立ちの違い、権力を支える組織と制度の違い、指導者の権力の制限の違い、指導者の目標や思想の違い、指導者に対する国民の気持ちと考え方の違い、国の憲法・法制度・経済体制の違い、権力分立の有無の違い……。「形式的な違いしかない」と主張するには、このような詳細を省略しなければならなく、それは実に無責任な発言であるとしか言いようがない。
民主主義とファシズムについては、藤原氏はこのような発言もしている:
「戦後、連合国は第二次世界大戦を『民主主義対ファシズムの戦争』などと宣伝しましたが、それは単なる自己正当化であり、実際は民主主義国家対民主主義国家の戦争でした。どの国にも煽動する指導者がいて、熱狂する国民がいました」
「国家の品格」第三章より
正直に言うと、ファシズムと民主主義の違いを否定しようとする藤原氏の考え方は、真面目に答えるにも値しないと思う。
だが、ナチスなどに立ち向かうことは、戦後からどころか、戦前から「ファシズムと民主主義の対決」として考えられていたことを証明するチャーチル首相の演説をあげよう。
1938年に、アメリカとイギリスの両国で放送された演説の一部だ。演説のテーマは、独裁と戦うために、「アメリカとイギリスが為すべき備え」である:
「武力を高めるだけではなく、我々は思想面においても敵に答えられる力を同時に身に着けなければならない。『ナチズム対民主主義』のように、『哲学の争いにまで巻き込まれてはならない』と主張する者はいるようだが、そんな争いなら、既に始まっているだろう。だが、精神面・倫理面における戦いにこそ、我々自由国は大きな力を発揮できるに違いない」
これは、一つ・二つの特徴だけにこだわり、それ以外のことをすべて無視する場合、いかに愚かな判断が下されてしまうかがよくわかる例だ。
「みんな果物で、しかも甘酸っぱいから、パインアップル、ブルーベリー、スターフルーツ、ミカンには、違いがあっても、それは形式的なことだ」と言っているような話だ。気候条件と栽培法、食べ方・料理法、細かい栄養素、値段、大きさ、色……、これを全部無視すれば、それは言えることかもしれないが、そうすれば、もはや意味のない発言になってしまうだろう。
同じように、上記の四人を一緒にするには、無視しなければならない事柄が実に多い。政府・政権そのものの成り立ちの違い、権力を支える組織と制度の違い、指導者の権力の制限の違い、指導者の目標や思想の違い、指導者に対する国民の気持ちと考え方の違い、国の憲法・法制度・経済体制の違い、権力分立の有無の違い……。「形式的な違いしかない」と主張するには、このような詳細を省略しなければならなく、それは実に無責任な発言であるとしか言いようがない。
民主主義とファシズムについては、藤原氏はこのような発言もしている:
「戦後、連合国は第二次世界大戦を『民主主義対ファシズムの戦争』などと宣伝しましたが、それは単なる自己正当化であり、実際は民主主義国家対民主主義国家の戦争でした。どの国にも煽動する指導者がいて、熱狂する国民がいました」
「国家の品格」第三章より
正直に言うと、ファシズムと民主主義の違いを否定しようとする藤原氏の考え方は、真面目に答えるにも値しないと思う。
だが、ナチスなどに立ち向かうことは、戦後からどころか、戦前から「ファシズムと民主主義の対決」として考えられていたことを証明するチャーチル首相の演説をあげよう。
1938年に、アメリカとイギリスの両国で放送された演説の一部だ。演説のテーマは、独裁と戦うために、「アメリカとイギリスが為すべき備え」である:
「武力を高めるだけではなく、我々は思想面においても敵に答えられる力を同時に身に着けなければならない。『ナチズム対民主主義』のように、『哲学の争いにまで巻き込まれてはならない』と主張する者はいるようだが、そんな争いなら、既に始まっているだろう。だが、精神面・倫理面における戦いにこそ、我々自由国は大きな力を発揮できるに違いない」
独立と生存のための日米戦争? (32)
藤原氏のように、20世紀の悲劇を「武士道の衰退」のせいにするのは大きな間違いだと私は思う。だが、いつかそれについて触れるとしても、ここで注目したいのは、「日米戦争は独立と生存のためだった」という藤原氏の主張だ。
藤原氏は、真珠湾攻撃後のルーズベルト大統領の演説についてこう述べている:
「ルーズベルト大統領だけが『恥ずべき』とか『破廉恥』などという最大限の形容を用いて憤激して見せたのは、モンロー主義による厭戦気分に浸るアメリカ国民向けでした。『アメリカの若者の血を一滴たりとも海外で流させない』という大統領選での公約を破り、欧州戦線に参戦するための煽動だったのです。計算どおり、国民は憤激し、熱狂し、大戦に参加することが出来たのです」 「国家の品格」 第三章より
またまたルーズベルト大統領についての陰謀論だが、「アメリカと中国の関係」や「真珠湾攻撃までの流れ」を考えれば、これはいかに愚鈍な考え方かはわかる。
確かに、ルーズベルトはヨーロッパの大戦に参戦したかった。だが、そう思っていた政治家や一般人は他にも大勢いた。アメリカとイギリスの絆は深かく、ヒトラーの大陸での残虐な侵略を見てみぬ振りは出来なかった。ヨーロッパへの参戦は当時のアメリカ人の賞賛すべき決心だったとも言えるだろう。
日本との開戦について、ルーズベルト大統領は煽動する必要なんて無かっただろう。日露戦争の時代から多くのアメリカ人が感じていた日本に対する好意は、日中戦争のニュースによって徐々に消滅してしまい、真珠湾攻撃を通して、それは完全に底をついてしまったわけだ。大統領の演説は大衆を煽動するための策略どころか、全国民が感じていたことを表現しただけだった。
もう一つ注意したいのは、日本に対する尊敬が徐々に軽蔑と不信に変わってしまったのは、元々あったアジア人に対する偏見によるものではなかったことだ。一部のアメリカ人には、日本人に対する偏見は確かにあり、移民問題からそれはわかる。だが、一部の人間は醜い差別に心を奪われていたとしても、その偏見が真珠湾攻撃後に爆発的に広まった原因の一つは、中国に対する日本の軍事行為をアメリカ人は何年も見てきていたことだ。
日米戦争は類稀なる悲劇だった。犠牲者となった各国の兵隊を考えても悲劇だった。各々の戦地で紛争に巻き込まれて犠牲者になった民間人のおびただしい人数を考えても悲劇だった。しかし、何と言っても、「紛争に至るまでの数十年間にわたる過程のどこかで、戦争を予防することができたはずだ」と思えば、それは特に悲劇に思えるだろう。
藤原氏のように、日米戦争は避けられなかった「独立と生存のための戦いだった」と主張することは、数多くの歴史事実を無視する無責任なカリカチュアであり、(日本を含めて)各参戦国の犠牲者に対する侮辱でもあるような気がする。
藤原氏は、真珠湾攻撃後のルーズベルト大統領の演説についてこう述べている:
「ルーズベルト大統領だけが『恥ずべき』とか『破廉恥』などという最大限の形容を用いて憤激して見せたのは、モンロー主義による厭戦気分に浸るアメリカ国民向けでした。『アメリカの若者の血を一滴たりとも海外で流させない』という大統領選での公約を破り、欧州戦線に参戦するための煽動だったのです。計算どおり、国民は憤激し、熱狂し、大戦に参加することが出来たのです」 「国家の品格」 第三章より
またまたルーズベルト大統領についての陰謀論だが、「アメリカと中国の関係」や「真珠湾攻撃までの流れ」を考えれば、これはいかに愚鈍な考え方かはわかる。
確かに、ルーズベルトはヨーロッパの大戦に参戦したかった。だが、そう思っていた政治家や一般人は他にも大勢いた。アメリカとイギリスの絆は深かく、ヒトラーの大陸での残虐な侵略を見てみぬ振りは出来なかった。ヨーロッパへの参戦は当時のアメリカ人の賞賛すべき決心だったとも言えるだろう。
日本との開戦について、ルーズベルト大統領は煽動する必要なんて無かっただろう。日露戦争の時代から多くのアメリカ人が感じていた日本に対する好意は、日中戦争のニュースによって徐々に消滅してしまい、真珠湾攻撃を通して、それは完全に底をついてしまったわけだ。大統領の演説は大衆を煽動するための策略どころか、全国民が感じていたことを表現しただけだった。
もう一つ注意したいのは、日本に対する尊敬が徐々に軽蔑と不信に変わってしまったのは、元々あったアジア人に対する偏見によるものではなかったことだ。一部のアメリカ人には、日本人に対する偏見は確かにあり、移民問題からそれはわかる。だが、一部の人間は醜い差別に心を奪われていたとしても、その偏見が真珠湾攻撃後に爆発的に広まった原因の一つは、中国に対する日本の軍事行為をアメリカ人は何年も見てきていたことだ。
日米戦争は類稀なる悲劇だった。犠牲者となった各国の兵隊を考えても悲劇だった。各々の戦地で紛争に巻き込まれて犠牲者になった民間人のおびただしい人数を考えても悲劇だった。しかし、何と言っても、「紛争に至るまでの数十年間にわたる過程のどこかで、戦争を予防することができたはずだ」と思えば、それは特に悲劇に思えるだろう。
藤原氏のように、日米戦争は避けられなかった「独立と生存のための戦いだった」と主張することは、数多くの歴史事実を無視する無責任なカリカチュアであり、(日本を含めて)各参戦国の犠牲者に対する侮辱でもあるような気がする。
2010年7月9日金曜日
真珠湾攻撃までの流れ 2 (31)
⑥ 1940年5月に、ヒトラーはオランダ・ベルギー・フランスを侵略した。この時より、アメリカにおいてはヒトラーの著しい戦果に対して、新たな不安が生まれた。イギリスまで侵略されたら、アメリカの東海岸はヒトラーの攻撃にさらされるからだ。
⑦ 日本は逆にドイツの戦果によって大いに得とした。なぜなら、オランダとフランスはドイツに占領されてしまったために、日本海軍の『南進論』の対象だったそれぞれの植民地を守ることが出来なくなったからだ。マレーシアにおけるイギリスの戦力もかなり制限された。
当時の日本の首相は近衛文麿だったが、実際に権力を握るのは陸軍大臣の東條英機に変わりつつあった。この時の東條はフランス領インドシナに圧力をかけ、その領土から中国の南部への新たな日本軍の進出を実行した。
⑧ 1940年8月、東條の大胆な進駐への対策として、ルーズベルト大統領はとうとう飛行機の燃料や金属くずの通商禁止を発令した。ハル議員などは、「やっと禁止令が出たのか」と思ったに違いない。
⑨ 通商禁止に対する報復手段という意味もあり、1940年9月27日に、日本は以前から実現させようとしていた「日独伊三国軍事同盟」に加入する。
1940年末には、日本の歩兵部隊などの訓練に、熱帯地方での戦闘演習が本格的に導入され、マレーシアやフィリピンに対する偵察飛行が行われ始めた。真珠湾攻撃の作戦もこの時期に完成され、陸軍省は、フィリピンなどで使える紙幣を印刷し始めた。
⑩ 1941年4月、「日ソ中立条約」が結ばれ、日本は、いわゆる「北進論」に基づく作戦を諦めた。ノモンハン事件の敗北以後の現実的な考え方だったとも言えるが、ソビエト連邦より唯一恐ろしい相手はアメリカ合衆国だったということも言えるので、「南進論」に対する勢力が増したことは残念な結果の一つである。
⑪ 1941年6月、ドイツはとうとうロシアの国土にも侵入した。日本はドイツと同盟を結んでいたので、日ソ中立条約はこれで廃止されるのではないかと、日本国内では大きな不安は感じられた。だが、なおさら南方の資源を確保するしかないと主張する軍人も多かった。
⑫ 1941年7月、日本はフランス領インドシナの全土を占領した。そこで新しく出来た基地からは、マレーシア、オランダ領東インド、フィリピンへの侵攻も容易になった。
⑬ 1941年8月、東南アジアにおける日本の新たな侵略行為に対して、ルーズベルト大統領は在米の日本資産を凍結し、対日石油輸出禁止を命じた。
⑭ アメリカの石油の輸入無しでは、18ヵ月間しか現状の武力を維持できないことは、日本の大本営の計算によって明らかだった。「その間にアメリカの海軍に止めを刺し、南方の資源を確保できる」というのは大きな賭けに過ぎなかったが、後の大本営の戦略はすべて、この賭けを大前提としていた。
⑮ 東條英機は10月から日本の首相となり、12月8日に真珠湾攻撃が行われた。同時にフィリピンにある米空軍の基地に対する攻撃も実行され、太平洋戦争が開幕を迎えた。
⑦ 日本は逆にドイツの戦果によって大いに得とした。なぜなら、オランダとフランスはドイツに占領されてしまったために、日本海軍の『南進論』の対象だったそれぞれの植民地を守ることが出来なくなったからだ。マレーシアにおけるイギリスの戦力もかなり制限された。
当時の日本の首相は近衛文麿だったが、実際に権力を握るのは陸軍大臣の東條英機に変わりつつあった。この時の東條はフランス領インドシナに圧力をかけ、その領土から中国の南部への新たな日本軍の進出を実行した。
⑧ 1940年8月、東條の大胆な進駐への対策として、ルーズベルト大統領はとうとう飛行機の燃料や金属くずの通商禁止を発令した。ハル議員などは、「やっと禁止令が出たのか」と思ったに違いない。
⑨ 通商禁止に対する報復手段という意味もあり、1940年9月27日に、日本は以前から実現させようとしていた「日独伊三国軍事同盟」に加入する。
1940年末には、日本の歩兵部隊などの訓練に、熱帯地方での戦闘演習が本格的に導入され、マレーシアやフィリピンに対する偵察飛行が行われ始めた。真珠湾攻撃の作戦もこの時期に完成され、陸軍省は、フィリピンなどで使える紙幣を印刷し始めた。
⑩ 1941年4月、「日ソ中立条約」が結ばれ、日本は、いわゆる「北進論」に基づく作戦を諦めた。ノモンハン事件の敗北以後の現実的な考え方だったとも言えるが、ソビエト連邦より唯一恐ろしい相手はアメリカ合衆国だったということも言えるので、「南進論」に対する勢力が増したことは残念な結果の一つである。
⑪ 1941年6月、ドイツはとうとうロシアの国土にも侵入した。日本はドイツと同盟を結んでいたので、日ソ中立条約はこれで廃止されるのではないかと、日本国内では大きな不安は感じられた。だが、なおさら南方の資源を確保するしかないと主張する軍人も多かった。
⑫ 1941年7月、日本はフランス領インドシナの全土を占領した。そこで新しく出来た基地からは、マレーシア、オランダ領東インド、フィリピンへの侵攻も容易になった。
⑬ 1941年8月、東南アジアにおける日本の新たな侵略行為に対して、ルーズベルト大統領は在米の日本資産を凍結し、対日石油輸出禁止を命じた。
⑭ アメリカの石油の輸入無しでは、18ヵ月間しか現状の武力を維持できないことは、日本の大本営の計算によって明らかだった。「その間にアメリカの海軍に止めを刺し、南方の資源を確保できる」というのは大きな賭けに過ぎなかったが、後の大本営の戦略はすべて、この賭けを大前提としていた。
⑮ 東條英機は10月から日本の首相となり、12月8日に真珠湾攻撃が行われた。同時にフィリピンにある米空軍の基地に対する攻撃も実行され、太平洋戦争が開幕を迎えた。
2010年7月8日木曜日
真珠湾攻撃までの流れ 1 (30)
では、アメリカと中国の「恋愛関係」を頭に入れながら、真珠湾攻撃までの流れを見てみよう。大雑把ではあるが、次の15点にまとめてみた:
① 20世紀に入ると、軍隊・産業・経済の更なる近代化のため、日本は国内で入手できない大量のゴム、錫(すず)、ボーキサイト、鉄、石油などがどうしても必要だった。これらの資源の貿易は、国の大きな財政負担となっていた。
② 明治維新から日本の人口が倍増したこともあり、「帝国の膨張」こそが、有力な経済政策として取り上げられるようになった。
例えば、1907年という早い時期から、海軍参謀の一部が南方への進出を考え始めた。具体的には、中国の南部地方やマレーシア、フランス領インドシナ(現代のベトナム・カンボジア・ラオス)、オランダ領東インド(現代のインドネシア)の占領を本格的に考慮していた。しかし、これを実行した場合、アメリカが抵抗してくることも予想されていたので、フィリピンやグアムを攻撃することによって米軍艦隊の出港を誘き寄せ、基地から遠く離れた海上で待ち伏せをする戦闘計画も練られた。
あるいは、海軍ではなく、陸軍参謀はどう考えていたかというと、「北進し、満州や東シベリアを占領する」という作戦が有力だった。当然ながら、この場合には、中国やロシアの抵抗が予想されていた。
③ 1931年9月18日、柳条湖事件で満州事変が始まった。
南満州鉄道は、日露戦争後に設立され、特殊会社として日本に運営されていた。柳条湖近くの線路で起きた爆発をきっかけに、日本の「関東軍」が進出し、五ヶ月間だけで中華民国東北地方であった満州全土を完全に占領した。関東軍は線路の爆撃が中国軍による破壊工作だったと主張したが、実際には関東軍の自作自演の策略であった。
翌年から、日本はこの地方において、「満州国」を建国し、太平洋戦争終戦まで関東軍の支配下においていた。
言うまでもなく、満州国建国にあたり、国境の問題が生じ、その紛争のもっとも激しい例はノモンハン事件である。1939年5月に勃発し、9000人近くの日本兵が犠牲者となった。この戦いは、「国家の品格」では、日中戦争の一部として取り上げられているようだが、ノモンハン事件は、日本vs中国ではなく、あくまでも、日本(あるいは満州国)vsソビエト連邦(あるいはモンゴル人民共和国)の戦いだったことを忘れてはならないだろう。
④ 1937年、中国軍が駐在していた盧溝橋付近で、日本軍の戦闘演習が行われた。この演習に対する混乱がきっかけとなり、最初は控えめだった両軍による撃ち合いが本格的な戦闘にまで発展してしまった。この「盧溝橋事件」が日中戦争の始まりだとされている。
ハル議員の記事を通して、この事件はアメリカでも大きなニュースとして取り上げられ、日米関係に大変な影響を及ぼしたことがわかる。だが、もっと重大な影響を与えてしまったのは、盧溝橋より更に南方で繰り広げられた戦闘である。つまり、中国軍を率いる蔣介石が上海付近で反撃を試みると、何ヶ月にも及ぶ新たな戦闘が起こり、徐々に勢力を増した日本軍は少しずつ中国軍を内陸へと追い詰めた。冬には、戦線は首都の南京まで来ていた。
様々な説があるので、12月13日から始まった南京虐殺がどの程度の規模だったかについては、ここでは論じない。とにかく注意しなければならないのは、このニュースがまたアメリカに伝わると、日本の軍隊や政府に対するアメリカの世論は大きな転機を迎えてしまったことだ。
⑤ 1939年9月1日、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻で、ヨーロッパにおける第二次世界大戦が始まった。
① 20世紀に入ると、軍隊・産業・経済の更なる近代化のため、日本は国内で入手できない大量のゴム、錫(すず)、ボーキサイト、鉄、石油などがどうしても必要だった。これらの資源の貿易は、国の大きな財政負担となっていた。
② 明治維新から日本の人口が倍増したこともあり、「帝国の膨張」こそが、有力な経済政策として取り上げられるようになった。
例えば、1907年という早い時期から、海軍参謀の一部が南方への進出を考え始めた。具体的には、中国の南部地方やマレーシア、フランス領インドシナ(現代のベトナム・カンボジア・ラオス)、オランダ領東インド(現代のインドネシア)の占領を本格的に考慮していた。しかし、これを実行した場合、アメリカが抵抗してくることも予想されていたので、フィリピンやグアムを攻撃することによって米軍艦隊の出港を誘き寄せ、基地から遠く離れた海上で待ち伏せをする戦闘計画も練られた。
あるいは、海軍ではなく、陸軍参謀はどう考えていたかというと、「北進し、満州や東シベリアを占領する」という作戦が有力だった。当然ながら、この場合には、中国やロシアの抵抗が予想されていた。
③ 1931年9月18日、柳条湖事件で満州事変が始まった。
南満州鉄道は、日露戦争後に設立され、特殊会社として日本に運営されていた。柳条湖近くの線路で起きた爆発をきっかけに、日本の「関東軍」が進出し、五ヶ月間だけで中華民国東北地方であった満州全土を完全に占領した。関東軍は線路の爆撃が中国軍による破壊工作だったと主張したが、実際には関東軍の自作自演の策略であった。
翌年から、日本はこの地方において、「満州国」を建国し、太平洋戦争終戦まで関東軍の支配下においていた。
言うまでもなく、満州国建国にあたり、国境の問題が生じ、その紛争のもっとも激しい例はノモンハン事件である。1939年5月に勃発し、9000人近くの日本兵が犠牲者となった。この戦いは、「国家の品格」では、日中戦争の一部として取り上げられているようだが、ノモンハン事件は、日本vs中国ではなく、あくまでも、日本(あるいは満州国)vsソビエト連邦(あるいはモンゴル人民共和国)の戦いだったことを忘れてはならないだろう。
④ 1937年、中国軍が駐在していた盧溝橋付近で、日本軍の戦闘演習が行われた。この演習に対する混乱がきっかけとなり、最初は控えめだった両軍による撃ち合いが本格的な戦闘にまで発展してしまった。この「盧溝橋事件」が日中戦争の始まりだとされている。
ハル議員の記事を通して、この事件はアメリカでも大きなニュースとして取り上げられ、日米関係に大変な影響を及ぼしたことがわかる。だが、もっと重大な影響を与えてしまったのは、盧溝橋より更に南方で繰り広げられた戦闘である。つまり、中国軍を率いる蔣介石が上海付近で反撃を試みると、何ヶ月にも及ぶ新たな戦闘が起こり、徐々に勢力を増した日本軍は少しずつ中国軍を内陸へと追い詰めた。冬には、戦線は首都の南京まで来ていた。
様々な説があるので、12月13日から始まった南京虐殺がどの程度の規模だったかについては、ここでは論じない。とにかく注意しなければならないのは、このニュースがまたアメリカに伝わると、日本の軍隊や政府に対するアメリカの世論は大きな転機を迎えてしまったことだ。
⑤ 1939年9月1日、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻で、ヨーロッパにおける第二次世界大戦が始まった。
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