2010年11月9日火曜日

ブログの引越し

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今後ともよろしくお願いいたします。

http://www.gonosen-ii.com/

2010年11月3日水曜日

現実を見つめることの大切さ (40)

藤原氏によると、「美しい情緒」、あるいは「美しい情緒」が一つの形を成している「武士道精神」は、六つの理由で世界を救う事が出来る。一つずつ見てみよう。

① 美しい情緒は、普遍的な価値がある。

ある意味では、チョコレートにだって普遍的な価値はあるが、「普遍的な価値=世の中を救う力」ではないのが現実だ。つまり、美しい情緒を育てるだけではなく、人間の心に深く根を張っている「醜い情緒」の対応法をしっかりと考えなければならない。でなければ、患者の心臓病を無視して、美容整形しか勧めないような「やぶ医者」と同じだ。このように、藤原氏の思想は現実性に欠けていると私は思う。

② 美しい情緒は、文化と学問を高める

それはそうかもしれない。

だが、「美しい情緒」を抱いている人でさえ、自分の主張を裏付けるためなら、歪んだカリカチュアを平気で利用したり、智子イズムに頼ったりすることがあることも見てきている。つまり、「美しい情緒」を身につけていても、時と場合によって、人は文化や学問に対してかなり否定的な態度を取ることがある。

③ 美しい情緒は、国際人を育てる

18世紀のヨーロッパには、立派な国際精神が栄えたと評価する歴史家がいる。カント、ギボン、ゲーテ、フランクリン、ルソーなどの文化人は、それぞれの国を代表するような人物だったにもかかわらず、何より楽しんでいたのは「国際交流」だったそうだ。『相手の国の言葉を喋り、その国の歴史や芸術について詳しい知識を持ち、その国は自国と経済的に結ばれていることを意識した上での交流だった』と、なかなか立派な話である。

それに比べて、自然の感受性・もののあわれ・祖国愛にいくら富んでいても、相手を見下げ、相手の思想や文学をカリカチュア的に扱うような人物ならば、「真の国際人」と呼んでいいのだろうか? 一つの基準として考え、まず言えることは、そんな人は18世紀の紳士たちの仲間には入れなかっただろう。

④ 美しい情緒は、人間のスケールを大きくする。

これにたいして、②と③と同じ疑問を抱かずにいられない。特に、藤原氏は、美しい情緒が人の「総合判断力」を高める効果があると主張しているが、本当にそうだったら、あえて智子イズムとカリカチュアに頼る必要はないだろう。

⑤ 美しい情緒は、「人間中心主義」を抑制する。

「自然に対する感受性」は「環境を大事にする精神」に繋がっていることは確かだろう。しかし、自然美などにまったく鈍感な人でも、綺麗な水を飲み、綺麗な空気を吸いたいと思うはずだ。だったら、自然の感受性を高めることは、環境問題への意識を高める唯一の方法でもなければ、最も容易い方法でもないと私は思う。

⑥ 美しい情緒は、戦争をなくす手段である。

これは、「美しい情緒」の力を大げさに言っているだけではなく、戦争の本当の原因を、藤原氏がどれだけ勘違いしているかを示す主張だ。次回は詳しく考えてみよう。

2010年10月6日水曜日

「美しい情緒」は世の中を救えるのか? (39)

自然に対する感受性。
もののあわれ。
懐かしさ。
家族愛。
郷土愛。
祖国愛……。

藤原氏が挙げる「美しい情緒」は、確かにどれも賞賛すべき感情だ。こうした情緒は、人間一人ひとりの人生を豊かにする効果があることも否定できない。愛する人に囲まれながら、大自然の美を楽しんで、一日一日を大切にする人こそ、真の幸せを手に入れたと言えるだろう。

だが、こうした情緒は「世の中を救える」という考え方は、途轍もなく大げさだと私は思う。

その理由を三つ挙げよう。



まず、どの「美しい情緒」も、太古の昔から世界の各国で存在するものであるにもかかわらず、「自然に対する感受性」によって、悲惨な戦争が避けられたケースは一つもない。「もののあわれ」に対する敏感さによって、飢饉や内戦で苦しむ発展途上国の治安が確立されたり、飲料水が消毒されたりした話も聞いたことがない。つまり、「美しい情緒」は、個人個人の人生を精神的なレベルで豊かにする力はあっても、命そのものを支えたり、生活を保護したりするような力はない。

もちろん、慈善的な行動に直接繋がるような「美しい情緒」もある。このような感情ならば、「世の中を救える」とまでいかなくても「世の中を改善できる」ことは、私も認める。しかし、人間社会に役立つような「美しい情緒」は、どちらかと言えば、藤原氏が説くような「美的情緒」ではなく、キリスト教や仏教で説かれている「慈愛」や「慈悲」である気がする。



では、家族愛・郷土愛・祖国愛などはどうだろう? 自然美の観賞などではなく、しっかりと人間関係に基づくこれらの情緒なら、慈愛や慈悲のように、ポジティブな影響を社会に与えることは出来るのだろうか?

これは多少認められるとしても、「美しい情緒」が世の中を救えない二つ目の理由をここで述べなければならない。つまり、いくら「美しい」情緒であるとはいえ、それは悪用される可能性もある。

藤原氏は、悪用され得る論理を批判しながらも、感情が悪用される可能性について一切触れないのは、私にとっては不思議でならない。どんなに悪質な議論でも、理屈をこねれば正当化することは確かに出来るかもしれない。だが、感情や情緒についても同じことが言える。テレビのコマーシャルから「振り込め詐欺」まで、一般の政治家から過激派の扇動者まで……、下心をもって大衆の情緒に直接訴える人・団体・会社は、社会の至るところで絶えず働いている。しかも、「美しい情緒」こそが、醜い事実を誤魔化すのに最適であると、それぞれのプロパガンダを製作する人・団体・会社は充分理解している。



最後に、「美しい情緒」にまつわる最も厄介な問題に触れよう。

つまり、いくら純白な情緒を抱きながらも、非道そのものの悪巧みに、人は参加することが出来るのだ。その極端な例として、戦争というものを挙げられるだろう。祖国愛、友情、自己犠牲の精神、正義感、忠誠心、惻隠、勇気……。戦争こそが「美しい情緒」を生み出すものであると言っても過言ではない。どの時代においてもそうであり、どの交戦国の勇士はこうした「美しい情緒」に日々支えられてきた。

しかし、言うまでもなく、すべての戦争は正しいわけではない。つまり、「美しい情緒」による「個人の美徳」と、単なる野望に基づく「国家の悪徳」とは、見事に共存することが出来るのだ。

いくら「美しい」情緒でも、その考え方や応用法を一歩でも間違えば、「世の中を救う」どころか、誤った論理以上の悪影響を世の中に与えてしまうことになるだろう。

虫の声 (38)

では、人間の感情は万国共通であり、日の下には新しいものはないのに、なぜ藤原氏は「もののあわれ」の英訳にそこまでこだわったり、欧米人は虫の声を楽しめないほど大自然の美しさに鈍感であると主張するのか? 

それは、「国家の品格」を通して、日本の洗練された美学や珍しい情緒こそが「世の中を救える」と藤原氏は主張したいからだ。となると、「日本にしかない情緒」、「日本人にしかない敏感さ」がなければならないわけだ。

日本の芸術は素晴らしい。日本の文学は繊細で巧みな表現に富んでいる。それは誰もが認めることだ。だが、藤原氏の主張を受け入れるために、海外の芸術、海外の文学、海外の人々の根本的な人間性についてでさえ、あまりにも歪んだカリカチュアを飲み込まなければならない。

例えば、藤原氏の考え方では、日本の詩人は大衆の心をありのままに上手く表現しているが、欧米の詩人は、一般の国民と掛け離れた存在であり、珍しい感性を持っていることになる。そんなことはありえない。シェイクスピア、 ディキンソン、 フロスト、 ホイットマン、 テニスン、 エリオット……。皆大衆に理解され、尊敬され、愛されているからこそ、普遍的な名声を得たのだ。

藤原氏の知人が、大自然に刺激され、その刺激がインスピレーションとなって、数学の難問を解けたというエピソードも、「国家の品格」で語られている。しかし、「自分の信仰によってインスピレーションを受けて科学の新たな発明が出来た」というニュートンの主張を、藤原氏は「根拠のない先入観」と馬鹿にしている。「藤原氏の友人は『美しい情緒』によって理解力が高められたが、ニュートンはただの迷信に騙されていた」という差別的な考え方は、あまりにも矛盾していて、受け入れられることにも、真面目に考慮されることにも値しないだろう。

2010年9月5日日曜日

恋愛詩 (37)

せっかくだから、もう一つの例を見てみよう。次の場合は、共通している感情も同じであれば、それぞれの反応まで大して変わらないかもしれない。

まず、和漢朗詠集からだ:

頼めつつ 来ぬ夜あまたに なりぬれば 待たじと思うぞ 待つにまされる

(相手が訪れてくることを毎晩期待しても、結局来ない夜がずっと続いてしまっている。だが、「これ以上待つまい」と決心するのもまた辛いことである)

満たされない愛。その寂しさはいかに耐えがたいことか、これも普遍的なテーマだ。

アメリカの詩人ウォルト・ホイットマンも、自分の心境をこう表現した:

I am he that aches with amorous love;
Does the earth gravitate? does not all matter, aching, attract all matter?
So the body of me to all I meet or know.

(私は恋情に思い悩む者だ。
地球に発せられる引力の如く、
どの物質も周囲の物に強く憧れ、引き付けようとするのではないか?
私の体も、知り合う全ての人を引き付けようとしている)

ギリシアの女性詩人サッポーも、強く渇望的な愛の辛さを上手に描いている:

情欲が又もわたしの身を揺さぶりまわす。
手足の力がとろかしてしまい、
からみつくこのほろ苦さに
わたしには何の抵抗もできない。


愛の力は恐ろしいものらしく、中国の隠逸詩人であった陶淵明でさえ、次のような切ない句を詠んでいる:

願在晝而爲影 常依形而西東
悲高樹之多陰 慨有時而不同

願在夜而爲燭 照玉容於両楹
悲扶桑之舒光 奄減景而藏明

(できることなら、昼には、影となって、あなたの身に寄りそっていたい。
しかし、悲しいことに、高い樹木の影も多く、ときどき一緒にいられなくなる。

できることなら、夜には、灯火となって、柱の間からあなたの美しい姿を照らし
 ていたい。しかし、悲しいことに、朝日が差してくると、あなたは私を消してし
 まうだろう)

この歌は、淵明の妻の没後の作ともされているので、一層切なく感じられる。

2010年8月14日土曜日

世のなかは 夢かうつつか (36)

形の多様性に富む世界の文学が、どのように共通した情緒に取り組んできたかを、具体的な例で見てみよう。

先ずは、古今和歌集から一遍の和歌を挙げよう:

世のなかは 夢かうつつか うつつとも 夢とも知らず ありてなければ

(世の中は、夢なのか、現実〔うつつ〕なのか、これは何とも言えない。全てがあってないような存在だからだ)

「よみびとしらず」による歌とはいえ、多くの人が考えてきたことだろう。シェイクスピアも次のような言葉を残している:

We are such stuff,
as dreams are made on; and our little life
is rounded with a sleep.

(我々は夢と同じ物で作られ、この儚い命は眠りに終わる)

古代ギリシア人、ピンダロスの詩では、同じ情が次のように表現されている:

人の命は一日限りの儚いものだ。人間とは、いったい何物だろう?
その存在をどう定義するか?
人は、夢の中の影だ。


最後に、李白の言葉を挙げよう:

處世若大夢  胡為勞其生

(この世にあるのは、大きな夢を見ているようで、儚く短い存在だ。ならば、必要以上に苦労しない方がいいだろう)

和歌を詠んだ詩人は、老荘思想もしくは仏教の影響を受けていたという説はあるが、シェイクスピアはどうかというと、演劇の独特な儚さに刺激されているようだ。脚本家ならではの話だ。

ピンダロスの詩はやはり古代ギリシアの思想に影響されている。格闘技の試合に優勝した若者を一旦褒め称えてから、彼は上記の言葉で締め括っている。どんな名声も儚いものであり、そもそも人間そのものも儚い存在であると。

そして、李白の詩の続きを読むと、酒豪だった彼は、「どうせなら今のうち楽しまなきゃ。酒だ!」と酔っ払って、しばらく道端で倒れてしまうのだ。しかし、目が覚めると、鶯の声を聞き、「このまま大自然に溶け込んでいきたいな」という無我の境地に至らせられる。

それぞれの詩は人生の儚さをテーマにし、その儚さに対する作者自身の「反応」ではあるが、きっかけとなった根本的な「感情」は全く同じだろう。

2010年8月5日木曜日

もののあわれ (35)

それぞれの文化が生み出した文学には、形式上の違いはあっても中身にはさほどの違いはない。どこの国の詩歌にも、人生の儚さが歌われ、移り変わる季節の美しさや故郷への懐かしさも歌われる。月・山・動物・虫……、どれも普遍的なモチーフである。

藤原氏は「もののあわれ」こそが、日本人ならではの美しい情緒であり、洗練されたこの美学こそ世の中が必要としているものだと主張する。美しい情緒などが世を救えるかどうかを考える前、とりあえず、「もののあわれ」というのは、そんなに珍しい情緒かどうかについて考えてみよう。

「『もののあわれ』に相当する英単語はなく、平安時代の和歌を英訳しようとする人は大変苦労する」。こうした理屈で、藤原氏は欧米における「もののあわれ」の理解が乏しいと主張している。しかし、そんな主張は、英語と言語学そのものに対する理解の足りなさを表しているだけではないだろうか?

実のところ、「ありがとうございます」や「どういたしまして」も、本来の意味をよく考えれば、ぴたりと当てはまる英単語は無いのだ。だが、「Thank you」と「You're welcome」で充分間に合っている。藤原氏のように、直訳にこだわることは下手な翻訳法だ。

英語には、二十五万以上の単語があり、これに熟語・専門用語・方言などをあわせると、総単語数は七十五万まで上るとも言われる。世界中の言語の中で最も多い単語数であるとされることもある。それだけの薀蓄を持ちながらも、誰もが経験するはずの「情」を表現できなかったら確かに困る。だが、実際には何の問題も無い。

まず真っ先に思いつくのは、「ephemeral」という形容詞だ。ギリシア語の「エフェメロス」という語に由来し、「一日だけ存在する」という意味から転じて、「儚い」や「短命である」などの意味をもつようになった。もちろん、形容詞としてどんな名詞を修飾しても良いから、英語では、ephemeral life, ephemeral joys, ephemeral beauty などの言い方がたくさんある。一日しか生きられない短命な虫や花にも使われる。響きが綺麗で、なかなか立派な言葉だ。

意味が似ていても、「transient」や「evanescent」という形容詞には、「ephemeral」とは微妙に異なったニュアンスがある。そして、語尾を変えれば、名詞として使えるので、さらにたくさんの表現が出来る。

この他にも、「transitory」、「fleeting」、「impermanaent」、「 momentary」、「 unenduring」などの言葉もあり、「もの」「の」「あわれ」のように、複数の単語を組み合わせようとすれば、巧みな表現がいくらでも出来る。

どちらかといえば、「よろしくお願いします」のような決まり文句の方が英語に翻訳しにくいだろう。主語も目的語も省略されているからだ。だが、いくら「日本的」な美学要素とはいえ、「もののあわれ」は、英語に翻訳しにくい言葉であるとは私は思えない。

「いや、そうじゃなくて、『もののあわれ』という言葉ではなく、『もののあわれ』という雰囲気を描くこと、『もののあわれ』という描写そのものは英語に翻訳しにくい」と言われても、私は納得しない。元の詩がよく出来ていれば、そのまま翻訳すれば良い。「もののあわれ」は万国共通の情緒の一つであるから、わかる人はわかる。

次回、形の多様性に富む世界の文学が、どのようにして共通した情緒に取り組んできたかを、具体的な例で見てみよう。

2010年7月26日月曜日

「日の下には新しいものは無い」 (34)

旧約聖書には、こういう言葉がある。
 
世は去り、世はきたる。
しかし、地は永遠に変わらない。
日はいで、日は没し、
その出たところに急ぎ行く。
風は南に吹き、また転じて、北に向かい、
めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。
先にあったことは、また後にもある。
先になされたことは、また後にもなされる。
日の下には新しいものはない。

「何となく悲観的だな」と、この箇所を好まない人はいるようだが、私は昔から気に入っている。非常に現実的な思想だからだ。

しかも、「天(あめ)が下のすべての事には季節があり、すべての業には時がある」という有名な言葉も、この後に続く。「悲しむに時があり、踊るに時がある」、「愛するに時があり、憎むに時がある」、「戦うに時があり、和らぐに時がある」などがその一部だ。つまり、「日の下には新しいものはない」という考え方は、悲観的どころか、人間のなすべき業には目的も意義もあり、大いに励むべきであることを訴えている。ただ、「これは新しい! これは珍しい!」と考えることは、高慢な態度と傲慢な行いに繋がるから危険だ。

文学評論家の中には、小説の筋立ては非常に限られていると主張する人がいて、その筋立ては合計三パターン、七パターン、三十六パターン……、といった具合にいろいろな考え方がある。「人間vs人間」、「人間vs自分」、「人間vs自然」、「人間vs神」などという大雑把な分野に、どの物語も当てはまると主張する人もいれば、「愛、裏切り、追求、脱出、和解……」などと、テーマ別に詳しく分類する人もいる。

ある意味、こんな評論はまったく意味のない考え方だ。すべての音楽だって、「ド、レ、ミ、ファ、ソ……」という至って限られた要素で出来てはいるが、その組み合わせは実に無限である。「物語」についても同じことが言えるだろう。

ところが、小説の中だろうと、現実の世の中だろうと、人の経験し得る事は、どの世代においても、どの国においても、基本的に共通していることを理解することは大切である。そういう意味では、評論家たちの思想も「日の下には新しいものはない」という考え方に近いかもしれない。

では、ここで私が付け加えたいのは、経験の種類が限られているだけではなく、その経験を通して呼び起こされる「感情」も大して変わらないことだ。

ある人種の抱く感情には、他の人種の抱く感情と「根本的な違いがある」と主張することは、「日の下には新しいものはない」原則を否定することになり、傲慢どころか、何となく馬鹿げている気までする。まるで、イタリア人の体によるスパゲッティの消化と、中国人の体による酢豚の消化に大きな違いがあると言っているようだ。

つまり、どこの国の人も、食事をしたり、病気になったり、恋人を愛したり、友人の死を悲しんだり、いずれは自分も死ぬ。そして、どこの文化にも、これらのことに対する習慣が古代より築き上げられている。食事の作法、交際と結婚の決まり、葬式のしきたりなどがその代表的な例である。だが、どの民族も、食べる時の嬉しさや満腹感は変わらない。病気の苦しみも変わらない。愛の喜びと不安も変わらなければ、死別の辛さも変わらないだろう。

「もののあわれ」などは日本人ならではの珍しい情緒であり、「このような情緒こそは世の中が必要としているものだ」と、藤原氏は『国家の品格』で主張している。

だが、「もののあわれ」などは、本当に氏の言うほど珍しいものなのだろうか? もし万国共通の情緒であるなら、そんなものは本当に世界を救えるのだろうか?

2010年7月17日土曜日

民主主義 vs ファシズム (33)

四人とも任期が長く、相当な権力の持ち主だったので、アドルフ・ヒトラー、東條英機、ルーズベルト大統領、チャーチル首相を、藤原氏は同じように扱っている。違いがあっても、それは「形式的なこと」であり、独裁は独裁であるそうだ。

これは、一つ・二つの特徴だけにこだわり、それ以外のことをすべて無視する場合、いかに愚かな判断が下されてしまうかがよくわかる例だ。

「みんな果物で、しかも甘酸っぱいから、パインアップル、ブルーベリー、スターフルーツ、ミカンには、違いがあっても、それは形式的なことだ」と言っているような話だ。気候条件と栽培法、食べ方・料理法、細かい栄養素、値段、大きさ、色……、これを全部無視すれば、それは言えることかもしれないが、そうすれば、もはや意味のない発言になってしまうだろう。

同じように、上記の四人を一緒にするには、無視しなければならない事柄が実に多い。政府・政権そのものの成り立ちの違い、権力を支える組織と制度の違い、指導者の権力の制限の違い、指導者の目標や思想の違い、指導者に対する国民の気持ちと考え方の違い、国の憲法・法制度・経済体制の違い、権力分立の有無の違い……。「形式的な違いしかない」と主張するには、このような詳細を省略しなければならなく、それは実に無責任な発言であるとしか言いようがない。

民主主義とファシズムについては、藤原氏はこのような発言もしている:


「戦後、連合国は第二次世界大戦を『民主主義対ファシズムの戦争』などと宣伝しましたが、それは単なる自己正当化であり、実際は民主主義国家対民主主義国家の戦争でした。どの国にも煽動する指導者がいて、熱狂する国民がいました」

「国家の品格」第三章より


正直に言うと、ファシズムと民主主義の違いを否定しようとする藤原氏の考え方は、真面目に答えるにも値しないと思う。

だが、ナチスなどに立ち向かうことは、戦後からどころか、戦前から「ファシズムと民主主義の対決」として考えられていたことを証明するチャーチル首相の演説をあげよう。

1938年に、アメリカとイギリスの両国で放送された演説の一部だ。演説のテーマは、独裁と戦うために、「アメリカとイギリスが為すべき備え」である:

「武力を高めるだけではなく、我々は思想面においても敵に答えられる力を同時に身に着けなければならない。『ナチズム対民主主義』のように、『哲学の争いにまで巻き込まれてはならない』と主張する者はいるようだが、そんな争いなら、既に始まっているだろう。だが、精神面・倫理面における戦いにこそ、我々自由国は大きな力を発揮できるに違いない」

独立と生存のための日米戦争? (32)

藤原氏のように、20世紀の悲劇を「武士道の衰退」のせいにするのは大きな間違いだと私は思う。だが、いつかそれについて触れるとしても、ここで注目したいのは、「日米戦争は独立と生存のためだった」という藤原氏の主張だ。

藤原氏は、真珠湾攻撃後のルーズベルト大統領の演説についてこう述べている:

「ルーズベルト大統領だけが『恥ずべき』とか『破廉恥』などという最大限の形容を用いて憤激して見せたのは、モンロー主義による厭戦気分に浸るアメリカ国民向けでした。『アメリカの若者の血を一滴たりとも海外で流させない』という大統領選での公約を破り、欧州戦線に参戦するための煽動だったのです。計算どおり、国民は憤激し、熱狂し、大戦に参加することが出来たのです」   「国家の品格」 第三章より


またまたルーズベルト大統領についての陰謀論だが、「アメリカと中国の関係」や「真珠湾攻撃までの流れ」を考えれば、これはいかに愚鈍な考え方かはわかる。

確かに、ルーズベルトはヨーロッパの大戦に参戦したかった。だが、そう思っていた政治家や一般人は他にも大勢いた。アメリカとイギリスの絆は深かく、ヒトラーの大陸での残虐な侵略を見てみぬ振りは出来なかった。ヨーロッパへの参戦は当時のアメリカ人の賞賛すべき決心だったとも言えるだろう。

日本との開戦について、ルーズベルト大統領は煽動する必要なんて無かっただろう。日露戦争の時代から多くのアメリカ人が感じていた日本に対する好意は、日中戦争のニュースによって徐々に消滅してしまい、真珠湾攻撃を通して、それは完全に底をついてしまったわけだ。大統領の演説は大衆を煽動するための策略どころか、全国民が感じていたことを表現しただけだった。

もう一つ注意したいのは、日本に対する尊敬が徐々に軽蔑と不信に変わってしまったのは、元々あったアジア人に対する偏見によるものではなかったことだ。一部のアメリカ人には、日本人に対する偏見は確かにあり、移民問題からそれはわかる。だが、一部の人間は醜い差別に心を奪われていたとしても、その偏見が真珠湾攻撃後に爆発的に広まった原因の一つは、中国に対する日本の軍事行為をアメリカ人は何年も見てきていたことだ。

日米戦争は類稀なる悲劇だった。犠牲者となった各国の兵隊を考えても悲劇だった。各々の戦地で紛争に巻き込まれて犠牲者になった民間人のおびただしい人数を考えても悲劇だった。しかし、何と言っても、「紛争に至るまでの数十年間にわたる過程のどこかで、戦争を予防することができたはずだ」と思えば、それは特に悲劇に思えるだろう。

藤原氏のように、日米戦争は避けられなかった「独立と生存のための戦いだった」と主張することは、数多くの歴史事実を無視する無責任なカリカチュアであり、(日本を含めて)各参戦国の犠牲者に対する侮辱でもあるような気がする。

2010年7月9日金曜日

真珠湾攻撃までの流れ 2 (31)

⑥ 1940年5月に、ヒトラーはオランダ・ベルギー・フランスを侵略した。この時より、アメリカにおいてはヒトラーの著しい戦果に対して、新たな不安が生まれた。イギリスまで侵略されたら、アメリカの東海岸はヒトラーの攻撃にさらされるからだ。

⑦ 日本は逆にドイツの戦果によって大いに得とした。なぜなら、オランダとフランスはドイツに占領されてしまったために、日本海軍の『南進論』の対象だったそれぞれの植民地を守ることが出来なくなったからだ。マレーシアにおけるイギリスの戦力もかなり制限された。

 当時の日本の首相は近衛文麿だったが、実際に権力を握るのは陸軍大臣の東條英機に変わりつつあった。この時の東條はフランス領インドシナに圧力をかけ、その領土から中国の南部への新たな日本軍の進出を実行した。

⑧ 1940年8月、東條の大胆な進駐への対策として、ルーズベルト大統領はとうとう飛行機の燃料や金属くずの通商禁止を発令した。ハル議員などは、「やっと禁止令が出たのか」と思ったに違いない。

⑨ 通商禁止に対する報復手段という意味もあり、1940年9月27日に、日本は以前から実現させようとしていた「日独伊三国軍事同盟」に加入する。

 1940年末には、日本の歩兵部隊などの訓練に、熱帯地方での戦闘演習が本格的に導入され、マレーシアやフィリピンに対する偵察飛行が行われ始めた。真珠湾攻撃の作戦もこの時期に完成され、陸軍省は、フィリピンなどで使える紙幣を印刷し始めた。

⑩ 1941年4月、「日ソ中立条約」が結ばれ、日本は、いわゆる「北進論」に基づく作戦を諦めた。ノモンハン事件の敗北以後の現実的な考え方だったとも言えるが、ソビエト連邦より唯一恐ろしい相手はアメリカ合衆国だったということも言えるので、「南進論」に対する勢力が増したことは残念な結果の一つである。

⑪ 1941年6月、ドイツはとうとうロシアの国土にも侵入した。日本はドイツと同盟を結んでいたので、日ソ中立条約はこれで廃止されるのではないかと、日本国内では大きな不安は感じられた。だが、なおさら南方の資源を確保するしかないと主張する軍人も多かった。

⑫ 1941年7月、日本はフランス領インドシナの全土を占領した。そこで新しく出来た基地からは、マレーシア、オランダ領東インド、フィリピンへの侵攻も容易になった。

⑬ 1941年8月、東南アジアにおける日本の新たな侵略行為に対して、ルーズベルト大統領は在米の日本資産を凍結し、対日石油輸出禁止を命じた。

⑭ アメリカの石油の輸入無しでは、18ヵ月間しか現状の武力を維持できないことは、日本の大本営の計算によって明らかだった。「その間にアメリカの海軍に止めを刺し、南方の資源を確保できる」というのは大きな賭けに過ぎなかったが、後の大本営の戦略はすべて、この賭けを大前提としていた。

⑮ 東條英機は10月から日本の首相となり、12月8日に真珠湾攻撃が行われた。同時にフィリピンにある米空軍の基地に対する攻撃も実行され、太平洋戦争が開幕を迎えた。

2010年7月8日木曜日

真珠湾攻撃までの流れ 1 (30)

では、アメリカと中国の「恋愛関係」を頭に入れながら、真珠湾攻撃までの流れを見てみよう。大雑把ではあるが、次の15点にまとめてみた:


① 20世紀に入ると、軍隊・産業・経済の更なる近代化のため、日本は国内で入手できない大量のゴム、錫(すず)、ボーキサイト、鉄、石油などがどうしても必要だった。これらの資源の貿易は、国の大きな財政負担となっていた。

② 明治維新から日本の人口が倍増したこともあり、「帝国の膨張」こそが、有力な経済政策として取り上げられるようになった。

 例えば、1907年という早い時期から、海軍参謀の一部が南方への進出を考え始めた。具体的には、中国の南部地方やマレーシア、フランス領インドシナ(現代のベトナム・カンボジア・ラオス)、オランダ領東インド(現代のインドネシア)の占領を本格的に考慮していた。しかし、これを実行した場合、アメリカが抵抗してくることも予想されていたので、フィリピンやグアムを攻撃することによって米軍艦隊の出港を誘き寄せ、基地から遠く離れた海上で待ち伏せをする戦闘計画も練られた。

 あるいは、海軍ではなく、陸軍参謀はどう考えていたかというと、「北進し、満州や東シベリアを占領する」という作戦が有力だった。当然ながら、この場合には、中国やロシアの抵抗が予想されていた。

③ 1931年9月18日、柳条湖事件で満州事変が始まった。

 南満州鉄道は、日露戦争後に設立され、特殊会社として日本に運営されていた。柳条湖近くの線路で起きた爆発をきっかけに、日本の「関東軍」が進出し、五ヶ月間だけで中華民国東北地方であった満州全土を完全に占領した。関東軍は線路の爆撃が中国軍による破壊工作だったと主張したが、実際には関東軍の自作自演の策略であった。

 翌年から、日本はこの地方において、「満州国」を建国し、太平洋戦争終戦まで関東軍の支配下においていた。

 言うまでもなく、満州国建国にあたり、国境の問題が生じ、その紛争のもっとも激しい例はノモンハン事件である。1939年5月に勃発し、9000人近くの日本兵が犠牲者となった。この戦いは、「国家の品格」では、日中戦争の一部として取り上げられているようだが、ノモンハン事件は、日本vs中国ではなく、あくまでも、日本(あるいは満州国)vsソビエト連邦(あるいはモンゴル人民共和国)の戦いだったことを忘れてはならないだろう。

④ 1937年、中国軍が駐在していた盧溝橋付近で、日本軍の戦闘演習が行われた。この演習に対する混乱がきっかけとなり、最初は控えめだった両軍による撃ち合いが本格的な戦闘にまで発展してしまった。この「盧溝橋事件」が日中戦争の始まりだとされている。

 ハル議員の記事を通して、この事件はアメリカでも大きなニュースとして取り上げられ、日米関係に大変な影響を及ぼしたことがわかる。だが、もっと重大な影響を与えてしまったのは、盧溝橋より更に南方で繰り広げられた戦闘である。つまり、中国軍を率いる蔣介石が上海付近で反撃を試みると、何ヶ月にも及ぶ新たな戦闘が起こり、徐々に勢力を増した日本軍は少しずつ中国軍を内陸へと追い詰めた。冬には、戦線は首都の南京まで来ていた。

 様々な説があるので、12月13日から始まった南京虐殺がどの程度の規模だったかについては、ここでは論じない。とにかく注意しなければならないのは、このニュースがまたアメリカに伝わると、日本の軍隊や政府に対するアメリカの世論は大きな転機を迎えてしまったことだ。

⑤ 1939年9月1日、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻で、ヨーロッパにおける第二次世界大戦が始まった。

2010年7月1日木曜日

アメリカと中国の「恋愛関係」 2 (29)

前回、中国YMCA会長のデヴィッド・ユイがワシントンDCに行って、日本軍による満州占領の不義をアメリカ政府に直接訴えたことにふれた。だが、こうした政治家への呼びかけより、日米関係における大きな影響を及ぼしたのは、映画『大地』だったのだろう。

お気づきの読者もいるかもしれないが、23,000,000人ものアメリカ人が『大地』を観に行った1937年は、盧溝橋事件により日中戦争が本格化した年でもある。つまり、日本国内で、日中戦争がどう正当化されていたとしても、中国の農民を気の毒に思っていたアメリカ人にとっては、日中戦争に関するニュースは、「弱いものいじめ」や「酷い侵略戦争」の話にしか聞こえなかった。

一つの例を見てみよう。

ウィスコンシン州・ブレア市は、本当は「市」と呼ぶに至らないかもしれない。今日でも、凡そ1,200人しか住んでいない小さな田舎町であるが、当時(1937年)の人口は600人だけだった。週に一度だけ発行されていた新聞「ブレア・プレス」を読んでみると、住民の暮らしは相当のんびりしたものだったことがわかる。何しろ、6枚ぐらいしかない新聞紙の表紙を毎回彩るのは、日曜日の朝に行われた礼拝行事の報告や「週末、ジョンソン家は、トムソン家へ遊びに行きました」、「スミス家のおばあちゃんは、今週86歳になります」のような記事ばかりだ。広告と言えば、卵を買い取ってくれる農協支店と中古家具屋のものぐらいだ。

だが、こんなに小さな田舎町とはいえ、国際問題については関心が高かったようだ。「ブレア・プレス」の少ない連載記事の一つは、ウィスコンシン州代表の国会議員、マーリン・ハルの随筆である。

前置きが長くなったところで、ハル議員の言葉を引用しよう。日付は、盧溝橋事件から一ヶ月後の1937年8月14日:



『わが国における外務関係者及び知識人は、「戦争」の定義にこだわり過ぎだ。

合衆国議会において、今期早々に、中立法が新しく制定された。これは我々が海外の紛争に巻き込まれないための法律であり、この法の下では、戦争中の国々に対して、弾丸やその他の軍需品の通商禁止発令が可能となった。実際、この法の制定後、スペインへの軍需品通商は、大統領の発令によって早速禁止された。

一方、近頃、大日本帝国はまたまた中国の領土を占領し、何千人もの民間人(女性や子供も含め)が、日本の大砲と爆撃機の犠牲者になっている。どう考えてもこれは侵略戦争である。だが、日本に対しては、通商禁止令は発せられないまま、議会では、そんな発令についての考慮すら本格的に為されていない。しかも、一人の議員によると、法的に「戦争」として認識できるかどうかという疑問があるため、日中の紛争は中立法の対象外である。

スペインの町が破壊され、スペインの民間人が爆弾の犠牲者になれば、それは「戦争」である。だが、中国で同じことが起きても、それは「戦争」ではない……。法的にどんな違いがあっても、我々一般人から見れば、大西洋の向こうで起きる虐殺も、太平洋の向こうで起きる虐殺も、どちらもやっぱり「戦争」に見える』



残念ながら、次のような陰謀論を未だに耳にすることがあるので、ここでは少しだけふれてみよう:

『ルーズベルト大統領は、既に起きていたヨーロッパの大戦に、アメリカ軍を早く参戦させたかった。だが、一般のアメリカ人は海外で戦争することに反対だったので、ルーズベルトは、「金属くずや石油の通商禁止」というはかりごとを用いて、日本が先に攻撃するように仕掛けた。つまり、日本を怒らせれば、日本はアメリカを攻撃する。そして、その攻撃に憤激するアメリカの大衆は反撃したくなる。日本はドイツと同盟を結んでいたので、それはヨーロッパでの参戦にも繋がる。そんなはかりごとを利用したルーズベルトは、卑怯な策士だったのだ!』

上記のハル議員の記事を読めば、ルーズベルト大統領が金属くずや石油の通商禁止令を実際に発する3年も前から、日本への通商禁止は国会議員の間で話題になっていたことがわかる。しかも、「ブレア・プレス」にまでそんな議論が詳しく報告されるほどだったので、養鶏所の経営者やその他の農家、いかにも素朴な一般人の間でも、「通商禁止」という手段が議論されていたに違いない。ルーズベルトの通商禁止令は「大統領の策略」どころか、それは、一般人の中国への思いから自然にわきあがる発想であった。

とにかく、ハル議員の新聞連載記事には、数週間にわたり、日中戦争の話題が取り上げられた。10月21日、彼は金属くずや石油の通称禁止を具体的に挙げている:


『中国での戦力を維持するために、日本国民の装身具まで徴発され、その金属が軍需品の生産に使われている。その上、「贅沢品」の輸入は禁止されているようだ。しかも、その「贅沢品」の中には、我々にしてみれば、贅沢どころか、いたって日常的な品物が多い。

もちろん、日本の政府が禁止している輸入物の中には、アメリカからの綿、石油、金属くず、軍需品生産に必要な機械類などは入っていないのだ。つまり、日本の政府は自国民の生活水準を犠牲にするまで、自分たちの戦争への欲望を満たしてしまうつもりだ。

言い換えれば、日本の将軍たちは、自国の貧困問題に取り組むこと、戦死した兵隊の遺族を援助することなどより、空襲によって中国の女性や子供にさらなる損害を加えることを優先している。

戦争の悲惨さを常に味わってしまうのは、投機家ではなく、罪の無い大衆だ』



戦争の責任は、日本の政府と軍隊だけではなく、アメリカを含め、日本との貿易を通して暴利をむさぼっている国家や企業家たちにもある。この訴えはハル議員の記事に多く見られる。平和を取り戻すために、ハルは「経済制裁」のような政策を提案していた。それは、なかなか先進的な考え方ではあったが、残念ながら、現実にならないうちに、太平洋戦争が始まってしまったのだ。

2010年6月23日水曜日

アメリカと中国の 「恋愛関係」 1 (28)

日米戦争の原因について、まず注意を払いたいのは、当時のアメリカと中国の意外に親密だった関係だ。

「恋愛関係」とは、妙な例えであると思われるかもしれないが、実際には、恋人というのは、相手に対する強い執着を抱きながらも、互いに理解し合えなかったり、傷つけ合ったりする、不思議なやり取りのある関係でもある。アメリカと中国も正にそのとおりだった。日米の場合を遥かに超えるような移民問題があったこと、中国が共産主義国家になった後には、正式な外交がすべて断たれてしまったこと、朝鮮戦争の際、実際に交戦までしてしまったことなど、これはすべて一般に知られているが、ここでは、この「離婚」の前の関係に焦点を当てよう。

1884年2月に、アメリカと中国は「望厦(ぼうか)条約」を結んだ。治外法権などの条件もあり、不平等条約だったという解釈もあるだろうが、ここでは、法律や貿易関係の条件より大切なのは、アメリカに譲られた他の種類の特権だ。

その一つは、中国語の学習に関することである。当時、中国国内では、外国人が中国人の教師から中国語を直接学ぶことは禁止されていた。だが、この法令は望厦条約により廃止となった。

もう一つ大切だったのは、五つの条約港で土地を借り、「病院・教会・墓地」を建てる権利がアメリカ人に始めて与えられたことだ。

どちらも、今考えれば、当たり前の権利のように思われるが、この二つの特権はその後の中国とアメリカの関係に画期的な影響を与えた。つまり、それまでブレーキがかかっていたアメリカ人宣教師による布教活動は一気に開放期を迎えた。これこそが、アメリカが中国に恋した瞬間である。

中国で働くアメリカ人宣教師は徐々に増え続け、1920年代になると、その数は6,600人を超えていた。中国の莫大な人口と面積を考えると、「6,600人? 大した人数じゃないな」とも言えるが、問題は宣教師が中国で挙げた布教の成果だけではない。つまり、数十年にわたり、何千人もの熱心な宣教師は、本国のアメリカでも活動していた。中国で病院・学校・教会などを建設するための募金活動がアメリカ国内で行われたし、宣教意識を高めるために、数多くの説教や著書がアメリカの会衆に向けられた。協力を得るために、政治家への呼びかけも盛んに行われた。このような活動によって多くのアメリカ人は宣教師に影響され、ある意味では、中国での成果より、宣教師たちがアメリカで挙げた成果の方が著しかった。

中国におけるYMCA(キリスト教青年会)活動の話もある。1922年までに36都市に支部が設置され、YMCA会員は54,000人にまで上っていた。YMCAの職員の半数以上は中国人だった。公衆衛生や反アヘン運動に力を入れながら、YMCAは様々な教育活動に積極的に取り組んでいた。国際問題にも関心を示し、満州事変勃発後の1931年には、中国YMCA会長だったデヴィッド・ユイは、ワシントンDCまで行き、日本軍による満州占領の不義を訴えた。

宣教師夫婦の娘であり、中国で育った小説家パール・S・バックの活躍も忘れてはならない。ピューリッツァー賞およびノーベル文学賞を受賞した彼女が常に作品のテーマにしていたのは、中国農民問題や貧困に耐える孤児の体験だった。1931年に書かれた作品『大地』が1,500,000部も売れたことは、一般のアメリカ人が中国に対して強い関心を抱いていたことを示すだろう。同小説は、1937年に映画化され、23,000,000人のアメリカ人が観に行ったそうだ。中国で活動する様々な慈善事業団体もバックによって設立された。

では、アメリカの中国に対する情の深さは、日米関係にどのような影響を及ぼしたのだろうか? 

2010年6月17日木曜日

移民問題と関東大震災 (27)

前回、移民問題の話が出たが、それは、世界の舞台で活躍し始めた大日本帝国を、アメリカの国民が案外好意に思っていたにもかかわらず、アメリカ国内で起きた残念な問題の一つである。具体的に言うと、サンフランシスコの公立小学校で、日系人学童の登校が急に拒否され、そのことが国際問題にまでエスカレートしてしまったわけだ。
 
当時、日本からの移民だけではなく、多くの国々からの移民をアメリカは制限し始めていた。だが、サンフランシスコで起きたこの事件がきっかけとなり、日米関係が特に揺らいでしまった。やがて行われた日米交渉の結果、移民問題は1907年に結ばれた「日米紳士協約」で一旦けじめをつけられた。妥協の内容は、「新しい移民を受け入れないが、既にアメリカに住んでいる日系人の親族だけは受け入れる」という体制だった。ちなみに、合衆国政府の圧力により、アジア人専用の小学校へ一時的に通わせられていたサンフランシスコの学童たちは、再び一般の公立学校へ通わせてもらえた。

幸いなことに、移民問題と対照的だったのは、関東大震災時のアメリカ人の反応だった。当時の新聞でその様子を見てみよう。

震災のおよそ二週間後の1923年9月14日、「サンフランシスコ・クロニカル」の一面には、震災の様子が詳しく述べられている。そして、第二面には、横須賀、大磯、小田原までの広範囲で、死者や負傷者の人数や破壊された家数などが詳しく挙げられるとともに、このような報告も掲載されている:

『海軍輸送船、ベガ丸の士官によると、当船は来週の火曜日に出港し、神戸へ向って直行する。救助物資を一刻も早く被災地に届けるために、船はホノルルに寄らず、アリューシャン列島の南部を経由して日本へ向う。5,500トンの米の他に、缶詰のサーモン、エバミルクなど、サンフランシスコで集められた大量の食料もベガ丸によって運ばれる。フォート・メーソン基地より毛布も寄付されている』

移民問題発祥の地であったとはいえ、十数年前に自分たちも大地震を経験したサンフランシスコの人々は、やはり日本人の被災者に同情したのだろう。サンフランシスコから出港するベガ丸を誇りに思っていただけではなく、カリフォルニア各地で民間人の募金活動が盛んに行われ、「○○市は募金のノルマを達成し、○○郡はノルマまであと少しだ」という記事も二面に掲載されている。

いきなり話を大きな国際問題に戻してしまうことになるが、後にイギリスの首相となったウィンストン・チャーチルの次の言葉を挙げよう:

『名誉ある古代国家に対する、エネルギー溢れる日本人の愛国心は立派であり、イギリスでも、日本の立場を理解してあげる努力が必要だ。日本の片方にあるのは、挑発的なソビエトロシアであり、もう片方にあるのは、混沌状態に陥っている中国だ。しかも、その中国の四・五州は既に共産主義の支配下で苦しんでいる』

これはただでさえ、日本を強く支援する言葉である。だが、日本軍による満州全土の占領に繋がった「満州事変」勃発から一年以上も経った1933年の発言であると思うと、その時点でさえまだ余裕があり、「日本・アメリカ・イギリスという三国は協力し合えば、その後の戦争を避けられたはずではないか?」とまで考えさせる言葉だ。

日露戦争後、大日本帝国とアメリカ合衆国を太平洋戦争に至らせた過程とは、いったいどんなものだったのか? 次回はそのことに触れてみよう。

2010年6月10日木曜日

当時のアメリカ人・イギリス人は日露戦争をどう思ったのか (26)

「武道精神は戦後、急激に廃れてしまいましたが、実は既に昭和の初期の頃から少しずつ失われつつありました。それも要因となり、日本は盧溝橋事件以降の中国侵略という卑怯な行為に走るようになってしまったのです。『わが闘争』を著したヒットラーと同盟を結ぶという愚行を犯したのも、武道精神の衰退によるものです。

私は日露戦争および日米戦争は、あの期に及んでは独立と生存のため致し方なかったと思っています。あのような、戦争の他に為すすべのない状況を作ったのがいけなかったのです」

『国家の品格』 第一章より



「日米戦争」の話を一旦置いておいて、「日露戦争」についてまず考えよう。

日露戦争に関しては、「日本の独立と生存のための戦いだった」という考え方を持つ当時の欧米人も多かった。特に好意的な態度を示したのは、日本の陸軍と共に行動し、日露戦争を最前線で見たイギリス人観戦武官たちである。

早速、観戦武官の一人、イヤン・ハミルトンが著した本を見てみよう。『日露戦役観戦雑記』は、終戦早々の1905年に出版され、二巻で合わせて900ページ以上の長編随筆である。ハミルトンは、黒木為楨大将などと接しながらも、一般の兵隊との交流を大切にし、豊かな表現力で自分の体験を記録した。日本軍の将校たちの威厳ある振舞い、兵隊一人ひとりの勇敢な戦いぶり、日本人の愛国心と武士道へのこだわり…。ハミルトンは、明治維新以来、急激に現代化してきたにもかかわらず、古代文化独特の良さを保ち続ける日本陸軍に大変感心したようだ。

第二巻の前書には、ハミルトンはこのように記している。

『私は自分の見聞きしたことをそのまま書くことしか出来ない。理解するかしないかは読者次第である。しかし、感性が深ければ深いほど、読者は黒木大将が率いる全ての兵隊を活気付けた偉大なる愛国心に共感するに違いない』

『日露戦役観戦雑記』の内容にまた触れる機会はあるかと思うが、武士道などにこだわるハミルトンの哲学的な随筆に比べて、日本軍の戦果をとにかく熱狂的に賞賛する書物もあった。

例えば、『The War Between Japan and Russia』は、「シカゴ・クロニカル」(新聞)の編集者を務めたリチャード・リンシカムと特派員のトランブル・ワイトによる共著作品である。戦争がまだ終わらない1905年上旬にこの本は出版されたため、旅順開城までの戦史しか掲載されていない。だが、すべての記事において、両著者は日本への熱烈な好意を表している。『The War Between Japan and Russia』の締め言葉である次の文章で、全体の格調がうかがえる。

『旅順開城は、一年にも及ぶ奮闘の画期的な出来事であった。そして、破砕された塁壁の上に空高く上げられる日の丸を、万国から眺める各々の民は、平和な将来を約束する曙として受け止めた』


戦時中及び戦後のアメリカの新聞記事も、国民の日露戦争への高い関心を表している。ここでは、二つだけの例を挙げよう。

1904年7月1日、「ワシントン・ポスト」の一面には、魚雷攻撃を受けた日本軍の最新情報と同時に、「Rabbis on Eastern War」という見出しで、こんな記事が取り上げられている。

『日露戦争について、ユダヤ教改革派の考えは次のように会議報告書で述べられている:

「私達は、(敵が滅びても、勝ち誇ってはならない)という聖典の教えを忘れてはならない。だが、独裁政治の破滅はその不正な行いによる当然な結果であることも、この戦いの大切な教訓であると言えよう」』


当時のロシアでユダヤ人が受けていた迫害を訴えながら、アメリカのラビたちの言葉はその後も続くが、ここで注意したいのは、ロシア軍にとっての悪戦況は『独裁』の当然の報いであるという考え方だ。これは、アメリカの社会において、決して珍しい考え方ではなかったようだ。例えば、『The War Between Japan and Russia』の序文には、次のような言葉があり、多くのキリスト教徒もユダヤ教改革派と同じ考え方をしていたことがわかる。

『確かに日本はキリスト教の国ではない。仏教など、我々から見れば異教の宗教が主流である。だが、日本においては、思想も言論も宗教も自由である。信仰及びその普及を妨害する規制はまったく存在しなく、日本の政権下ではキリスト教の宣教師も自由に働ける。人権や所有権も、ロシアと違って、日本では保障されている。自由・正義・教育・努力、キリスト教の真髄と言うべきものが、日本独特の精神にも数多く含まれており、巨大な敵国であるロシアよりも、日本こそがこうした真理を大切にしていると言っても良かろう』

二つ目の新聞記事は、フランスの政治家の珍奇な発言についての報告である。1908年1月11日、移民問題で日米関係が乱れ出した中、ルシエン・ミルヴォイは、イギリスとフランスこそが外交を通して日米の和解を実現させる義務があると主張した。そのうえ、その責任を逃れようとするイギリスを批判し、同時に日露戦争の責任をイギリスに負わせようとしている。

『ルシエン・ミルヴォイ氏は、日露戦争勃発の責任は英国にあると主張する。そして、「満州を墓地化した」あの大戦に相次ぐ「世界を震えさせる、新たな忌まわしい戦争」を望んでいるのかと、英国に問い詰めている:

「アメリカ対日本の戦争を煽り立てれば、両国が潰れた後に、極東アジアを支配できるなどと、英国人は考えてはならない。そうした場合、インダス川からアムール川まで、アジア諸国の民族も立ち上がって抵抗するからだ」』


ヨーロッパ人によるこんな発言が「ワシントン・ポスト」で話題にされたことは、日露戦争についての関心が高く、いろいろな視点から盛んな議論が終戦後にも為されていたことを示す。「イギリスは日露戦争を引き起こしただけではなく、今度は、日米移民問題を煽り立て、日本とアメリカを戦争に追いたてようとしている」という至ってでたらめな陰謀論でさえ、アメリカの新聞で注目されるほどだった。

2010年6月4日金曜日

帝国主義の本質とは (25)

さて、誤った論理への執着でなければ、帝国主義の本質とは、いったいどんなものだったのか? 

その答えは、前回引用したホブソンの言葉にあると私は考える。つまり、「国際問題において、どの国も軽率で利己的な主張をする傾向がある」。これこそが、帝国主義が生んだ様々な野望と残虐行為の本質を解く鍵だ。

『帝国主義論』の中で、ホブソンが特に批判しているのは、貪欲な資本家たちである。国全体の長期的な利益を考えず、資本家たちは自分たちの欲を満たすために、国の政策を操り、世論を乱し、常に帝国の更なる膨張を要求してきた。つまり、帝国主義の本質は至ってわかりやすい「人間の強欲」である。

トマス・モアのこの言葉も挙げられるだろう:

「どこを見ても、必ずいるのは、「国家のため」という口実で、自分の利益をひたすら追い求める金持ちだ」

帝国主義とその時代の複雑な歴史を「論理馬鹿仮説」で片づけようとするのは、あまりにも非現実的な考え方だ。大英帝国ほど大きな国家を動かしたのは、一つの論理ではなく、数百年の間に生まれてきては、成長したり、研究したり、戦ったりする人間たちだった。何世代にもわたる国民の一人ひとりが、「イギリス」という社会に独特な影響を与えた。夢・信仰・欲望に満ち、一人ひとりの心に慈愛も忍耐も憎しみもあった。失敗することもあれば、見事に自分の目標を達成することもあった。

国家・国体・歴史そのものに染み込んで、すべてを包み、すべてに共通した影響を与え続けるものがあるとすれば、それはけっして一つの理論ではなく、全人類の根本的な人間性である。誰にでもある本能的な欲望、潜在意識の中の原始的な感情、こういうものこそが私たちの性格の元素であり、行動のきっかけでもある。言い換えれば、私達は皆一つの人間性の分身である。

この人間性は社会全体の働きにも現れる。輝かしい進歩も、惨い戦争なども、この人間性を持つ結果である。したがって、藤原氏が説く「論理馬鹿仮説」のような思想は、直感・感情・本能の力を無視しているので、医者の誤った診断のようなものである。

エイズ患者の免疫組織が弱っていることに気を留めず、医者はそのときそのときの発熱に一時的な対応しか取らなかったならば、その患者の寿命は著しく縮むだろう。ましてや、社会全体の「病気」を治療しようとするのであれば、その病気の全体像をしっかりと把握した上でないと、治療はうまくいかないだけではなく、実際に悪化させる可能性も充分にある。

2010年6月1日火曜日

イギリスの帝国主義 2 (24)

『領土を更に増やす政策だろうと、既に占領している広大な熱帯地を積極的に開発するだけだろうと、「帝国主義」によって確実にもたらされるものは、軍国主義と、破滅を招く大戦争だ。その事実はもはや明らかである。我々は世界各国を支配することは確かに出来るようだが、条件として、我々は跪いて、モレクを礼拝しなければならない』

ジョン・アトキンソン・ホブソン(経済学者)、『帝国主義論』より



モレクは、旧約聖書に記録されている(ユダヤ人から見た)異教徒の神である。牛の頭をした男性神で、その崇拝の特徴は人身御供だった。特に新生児や幼児が生贄にされていたようだ。ローマと対立した古代帝国カルタゴでも、モレク崇拝が行われ、600年間で、20,000人以上の子どもが生贄にされたと思われる。

「イギリスの帝国主義はモレク崇拝に等しい」。こう叫んでいたホブソンは、物凄い表現力に恵まれた人物だったようだが、少数派の目立たない人物だったら、一般のイギリス社会における影響力は無かったのかもしれない。ホブソンはいったいどんな人だったのだろう?

実は、ホブソンもまたかなりの大物だ。二十世紀を代表する経済学者ジョン・メイナード・ケインズは、自分の著作の中でホブソンを引用するほどであり、ロシアのレーニンもホブソンの影響を大いに受けた。日本でも、ホブソンは一般に知られていたようで、1897年から1933年まで、『帝国主義論』を含め、ホブソンの書物は9冊も和訳され、岩波書店などから出版された。

『帝国主義論』で、ホブソンは以下の点で帝国主義を批判している:

• アフリカ大陸や他の熱帯地方におけるイギリスの植民地は、本国に経済的な利益をもたらす見込みはまったくない。しかも、自立国家となり、貿易以外の形で帝国に奉献することも期待されない。

• オーストラリアやカナダと違って、熱帯地方などの植民地は、イギリス人の移民の対象国にもならない。

• 帝国の各地で起こる紛争に巻き込まれ、イギリスは常に経済的な損を受け、国家の名誉や品性も、不道徳な戦争によって損傷を受けている。

• 1870年から1900年の間に、膨張する大英帝国に対する不信や敵意はヨーロッパ諸国において勢力を増し、外交も貿易も悪影響を受けている。

• ヨーロッパ諸国の敵意がこうして高まる中、軍事支出も増える一方である。これが国全体の不景気に繋がる時はやってくるはずだ。

• 途上国の開発を、日本・フランス・ロシアなどの帝国に任せても、将来的にそれはイギリスの繁栄にも繋がる。イギリスは自ら携わる必要はない。

• やたら国境を広めようとすることは野蛮な行為であり、国内の資源を生かしながら貿易に専念することこそは、正当な経済活動である。

  藤原氏が言うように、イギリスは帝国主義独特の「論理」に幻惑されていたどころか、帝国主義の「非合理」がどれだけイギリスで議論されていたかは、ホブソンの思想によって明らかである。

『帝国主義論』のこの言葉も引用しよう:


『アフリカやアジアの植民地をめぐる争奪は、ヨーロッパ各国の政策を左右している。共通の歴史や自然な同情とまったく関係ない同盟が結ばれている。どの国にも莫大な軍事支出が背負わせられている。アメリカ合衆国も、伝統である孤立主義を捨てざるを得ない状況となり、この紛争に巻き込まれてしまった。植民地の争奪が起こす外相問題の数が多く、スケールも大きい。急激に現れるこれらの問題は人類の進歩を絶えず妨害し、平和そのものを威嚇する存在である。

国際問題においては、どの国も軽率で利己的な主張をする傾向がある。しかし、世界各国が生活必需品確保の上で相互依存している現代においては、上記のような争奪を国際関係の標準として受け入れることは、文明そのものを危険にさらす愚かな行為である』

2010年5月29日土曜日

イギリスの帝国主義 1 (23)

「1900年の時点のイギリスには、天才も秀才もたくさんいたし、人格者も聖職者もたくさんいたはずです。しかし、論理というものがきちんと通っていれば、後に振り返っていかに非道に思えることでも、なぜか人間はそれを受け入れてしまうのです。…… 今から考えると、植民地主義や帝国主義というのは、たんなる傲慢な論理にすぎない。しかし、当時は、きちんとした論理が通っていたので、みながそれに靡いたのです。帝国主義が「本当にいけないこと」として認知されたのは、第二次世界大戦が終わってからに過ぎません。」

『国家の品格』 第一章より


十九・二十世紀における帝国主義や、その他の近代歴史について考える時、藤原氏はまた「論理馬鹿仮説」を用いているようだ。だが、いくら悪の代名詞となった「帝国主義」がテーマでも、バランスのある思考法で取り組まなければならない。複雑な歴史問題だからだ。先入観たっぷりの智子イズムで取り組んでしまえば、ろくな結論も出なく、昔の恨みや敵愾心が蘇るだけだろう。

帝国主義の本質に触れる前に、帝国主義の倫理問題が、第二次世界大戦終了まで本当に認められなかったかということについて考えよう。

先ずはっきりと言っておく。決してそうではなかった。大英帝国が膨張するにつれて、その膨張を非難する声も常にあった。しかも、その声は徐々に勢力を増していた。

例えば、首相候補だったイギリスの政治家、チャールズ・ディルクは1899年に、『大英帝国』という本を執筆した。その中にはこんな箇所もある:


「『自由』を揚げて正当化しても、アフリカ大陸の区画や『コンゴ自由国』の設立を促進することによって、我々は、先祖が犯した奴隷貿易の罪より大きな悪事に参加していると言えるだろう」


この『大英帝国』は、数多くの新聞評論家の賞賛を受け、現代の言葉で言えば、ベストセラーだった。しかも、実際のところ、ディルクは帝国主義「賛成派」の有力な一員だった。そんな彼がそこまで正直な反省を公に述べられたことは、当時のイギリスでどれだけ盛んな議論が為されていたかを表しているだろう。

帝国主義は大きな社会問題として取り上げられていたことをはっきりと示す書物は他にも多数ある。ジョン・ロバート・シーリーの『英国膨張史』はその一冊である。1883年7月に発刊された『英国膨張史』は、同年の10月に早くも重版が決定され、再発刊は1914年までには、18回も行われた。

ちなみに、歴史家・作家として高い評価を得ていたシーリーは、日本にも影響を与えている。稲垣満次郎は、イギリス滞在中に著した英作文「Japan and the Pacific and the Japanese View of the Eastern Question」を、恩師であったシーリーに提示するほどであった。

では、『英国膨張史』の一箇所だけ挙げよう:


「わが国民の間では、帝国に対する考え方は二通りある。片方の思想を持つ者は、大言壮語する癖があり、もう片方は、悲観的なことしか言わない。

前者は、巨大な帝国を築き上げるために費やされた壮大な努力とエネルギーを思うと、恍惚とした情を抱く。したがって、帝国を維持することは、国の名誉や品格を保つための義務であると、この人たちは主張する。

後者の主張は正反対である。つまり、帝国は侵略行為から生まれた上に、無益な植民地は本国イギリスの重荷になっていると、彼らは解釈する。それから、島国独特の国防的な利点は失われ、イギリスは世界各地の争いに巻き込まれてしまうことを恐れている。したがって、帝国の速やかな廃止を、この人たちは望んでいる」


「帝国は侵略行為から生まれた」、「無益」、「重荷」……。強い言葉ばかりだ。反対派は、遠慮せずにがんがん不平をこぼしていたようだ。

ところで、ディルクと同じように、シーリーも国の政策としての帝国主義を支持していた。次回は、経済学者、ジョン・アトキンソン・ホブソンの『帝国主義論』より、実際の反対者の言葉を挙げておこう。

2010年5月26日水曜日

歴史問題 (22)

歴史を芸術に例えるとしたら、彫刻が一番似ている分野だろう。

要するに、歴史の基本的な「事実」は、歴史家の手では粘土となり、その粘土を使い、歴史家は自分のイメージどおりの作品を作り上げる。粘土を練りながらゴミを取り除く彫刻家と同じように、歴史家も自分の「作品」に入れたくない史実を取り除くことが出来、作品の中には、自分の歴史観と解釈をいくらでも強調できる。

自分の先入観を認めた上で、ありのままの史実だけ伝えようと努力すれば、歴史家はある程度バランスのある作品を作り上げられる。すると、過去と同じ問題に取り組む現代人の参考にもなり、大きな価値のある「良い歴史」は生まれる。

しかし、芸術家が模写を試みても、なかなか自分の癖をなくせないのと同じように、歴史家も自分自身の思想や先入観を完全に消滅させることは出来ないだろう。通常なら、こうした歴史解釈の多様性は問題にならなく、逆に言えば、いろいろな考え方があった方が望ましい場合もある。

だが、やたら自説を押し通すだけの解釈ならば、それは、骨もなく、粘土がべとべとと重ね合わせられた彫刻に等しい。美しさもなければ、実用性もない。こうした「悪い歴史」は、過激派や原理主義者のプロパガンダ以外に、何の役に立たない。

歴史は面白い。歴史の勉強は楽しい。歴史を語り継ぐことは言い尽くせないほど大切である。だが、何と言っても、歴史の解釈に無くてはならないものはバランスである。無知や先入観によってそのバランスが崩れてしまえば、歴史は危険にもなり得る。

しばらくは、大きな歴史問題に焦点を当てることにしよう。どれも大切な話題であリ、大いに研究する価値がある。

2010年5月23日日曜日

アメリカの大学生の英語力 (21)

「私がアメリカで教えていた当時、アメリカの大学生たちはろくな英語を書けませんでした。宿題の添削をしていると、あまりにも英語がひどいので、数学そっちのけで英語のチェックをしていたくらいです。professorの「f」を2つダブらせるといった単純なスペルミスならまだいい方で、主語が三人称単数で現在形なのに「s」をつけなかったり、そもそも主語がなかったりと、とにかくめちゃくちゃでした」

「国家の品格」 第二章より


『ありえない。 まったくありえない……』。

藤原氏の言葉を読んだ時、私はそう思った。スペルミスだけに関しては、多少認められるが、それにしても、藤原氏の思っているほど重要な問題ではないだろう。

英語のスペルミスには三種類がある。

一つは、単純に綴りがわからない場合のミスである。長い言葉、普段使わない言葉、外来語(特にフランス語に由来する単語がわずらわしい)……、いわゆる「難しい言葉」を書く時に見られがちな失敗だ。

次は、同音語を無意識に入れ替えってしまう種類のミスだ。「There」を「Their」と書いてしまうのは代表的な例である。

最後のスペルミスは、「タイポ」と呼ばれ、タイプの打ち間違いである。だが、単なる打ち間違いの他にも、こんなことがある。普段は友人との文通の中で「Thanks, John」と簡単に書いてしまうが、親しくない相手に対して、「Thank you, Mr. Peterson」と書かなければならない。この場合、「Thanks you, Mr. Peterson」と間違えることがある。つまり、指で覚えた動きで、要らない「s」を「Thank」につけてしまったわけだ。

言うまでもなく、スペルミスのほとんどは、教養の無さや国語の無知を表すような大問題ではない。無意識に犯してしまう「不注意」だ。ちゃんとした文書やリポートだと、何度も読み返して、こうしたミスを直すのが基本で、誰もが心掛けることである。だが、それでも気付かない場合があるので、ある程度の間違いを皆で赦し合うしかない。

ということで、professorの「f」が二つ書いてあった話は想像できる。そして、藤原氏にはそこまでのこだわりがあるのなら、仕方がないと思う。 (もちろん、生徒を注意しながらも、もう少し寛容な心を持ってもらいたかったのは本音だが……)。

しかし、三人称単数の「s」を付けなかったり、主語を完全に省略したりするような話は、私にはどうしても信じられない。外国人の留学生だったら、まだそういうことはあるかもしれないが、藤原氏は母国語として英語を話すアメリカ人のことを言っている。となると、どんな癖のある喋り方をする人でも、書く時にはそんなミスをするはずは無い。

とはいえ、私は数学者ではないので、数学学会における独特の表現法、もしくは、文書の書き方の決まりでそうなってしまうことはあるのかなと疑問に思った。念のため、私はちょっとした調査を行うことにした。

藤原氏の指摘する三種類の国語ミス(綴りの誤り・三人称単数の「s」を付けないこと・主語の省略)を説明して、そのようなミスが担当する学生のリポートに見られるかどうかを、私はメールで20人程の現役数学教授に問い合わせてみた。その中には、藤原氏が助教授として務めたコロラド州立大学の教授も多く、その時代からずっと働き続け、藤原氏を覚えている方も数人いた。

代表的な回答をここで翻訳しておこう:

『英語を話す生徒たちには、そんな間違いをする人はいません。数学独特の言葉遣いや表記の仕方がそうさせることもないでしょう』


『いや、そんな間違いを見たことがないな』


『私は、コロラド州立大学で20年間も教えてきましたが、藤原氏が言っているような間違いをする生徒を一度も見たことがありません。作文がさほど上手ではない人ならもちろんいます。しかし、数学の薀蓄についても同じことが言えるでしょう。残念ながら、完全に準備できている生徒はいません! とはいえ、藤原氏が言っている話はちょっと信じられませんね』


『スペルの間違いは多いですが、動詞のSが抜けていることなんて、私は見たことがないです』


回答の中には、次のような意見もあり、正直に言うと、カリカチュアを平気で利用する藤原氏の主張については、これは私自身のやむをえない解釈でもある。


『そんな間違いが稀に見られたとしても、それが標準的であるかのように主張することは、無責任である。そんな著者を赦せません。高校生の作文でさえ、そんな間違いなんて滅多に見られないでしょう。筆者は意図的に事実を曲げているとしか思えません。

この人はなぜそうやってアメリカの大学生をけなしているのだろうか? 私が聞きたいのはそれだ。そこまで馬鹿げたことを言うほどであれば、何かしらの下心はあるに違いない』

2010年5月19日水曜日

真の「平等」 (20)

藤原氏が言うには、「平等」は論争を煽り立てる自己中心的な考え方であり、自分の利己心を正当化する口実に過ぎない。

しかし、私のクレジットカードが盗まれ、私に成りすまして誰かが買い物をしたとしても、私自身の存在がなくなるわけではない。同じように、利己心が「平等」と名乗り、「平等」という言葉が悪用されることがあっても、純粋な「平等」という概念には何の変わりはない。

アメリカの奴隷制度の歴史を振り返ると、真の「平等」概念は、いかに人間社会を改良してきたかはわかる。

例えば、こういう話がある。

1742年、ニューヨーク州の小さな農場で、マム・ベットという女性が奴隷として生まれた。ベットは成人するまでその農場で育ち、働き続けたが、主人(飼い主)が亡くなると、彼の娘の相続の一部として、ベットはマサチューセッツ州に引き取られた。38歳になるまで、ベットは元主人の娘とその夫(ジョン・アシュリー)に仕えた。その間、ベットは結婚したが、夫は独立戦争の戦いで殺され、また独り者となってしまった。

1780年のある日、女主人に叩かれたベットは逃げてしまった。これは相当な覚悟の要る行為だった。見つかれば、体罰は当たり前で、南部に売られてしまう可能性もある。だが、ベットはアシュリーに見つかっても、彼の言うとおりにしようとせず、一緒に農場に帰らなかった。

実は、その年、マサチューセッツ州の憲法が新しく批准され、独立宣言の「すべての人間は平等に創造され、作り主によって、本質的尚且つ侵すべからざる権利を与えられている」という言葉は、ほぼそのまま採用された。ベットは字が読めなかったが、周りの人の会話からこの法律のことを知ると、彼女は自分がもはや法律上奴隷ではないはずだと確信を持ち、町の弁護士のところに駆けつけた。

幸い、弁護士はベットに協力することにした。アシュリーのもう一人の奴隷(ブロム)も原告になり、『ブロムとベット対アシュリー事件』として裁判が行われた。「すべての人間は平等である」ことは、二人の唯一の主張ではあったが、陪審員の評決により、二人の解放は被告のジョン・アシュリーに求められた。損害賠償として、ベットには18年分の給料も要求された。

では、マサチューセッツ州の憲法に「平等」の概念が採用されたのは、王や貴族に対抗するためだったのだろうか? もちろん、それはありえない。州の憲法にはそんな相手なんてそもそもいない。言うまでもなく、それは個人的な利己心を正当化する口実でもなかった。独立宣言と同じように、マサチューセッツ州の憲法はすべての人民の権利を守るために「平等」という概念を重視していた。結果の一つとして、マサチューセッツ州は奴隷制度を廃止する始めての州となった。

奴隷解放、女性の選挙権、様々な人権の法律化……。「平等」という概念は今まで人間社会を大いに進歩させてくれた。今さら、「でっち上げた思想だ」と言って、「平等」を捨てても、ろくなことはないだろう。

2010年5月16日日曜日

トーマス・ジェファーソンと奴隷問題 (19)

ジェファーソン自身には大勢の奴隷がいたことは否定できない。こんな人物が人間の平等を唱えても、単なる偽善ではないか? やはり、アメリカという国家、アメリカという社会は、大きな嘘の上に建てられたのだろうか?

藤原氏はそう思っているようだが、ジェファーソン自身のことや独立宣言布告後のアメリカの歴史を冷静に考えた方がいいだろう。

先ず、ジェファーソンは奴隷制度廃止論を一生懸命唱えた人物でもあったことを忘れてはならない。当時、奴隷は完全な私有物として考えられていたので、いろんな意味で財産問題が絡んでいた。例えば、奴隷はローンの担保として扱われることもあったため、借金のある人は、自分の奴隷を解放したくても、借金がある限り、解放することは法律的に不可能だった。実は、ジェファーソンも正にそんな状況にあり、「奴隷を解放すべきだ」と確信を持っても、実際にはそれが出来ないため、彼は大いに悩んでいたらしい。

独立宣言の下書きを読んでみると、奴隷制度を新大陸の植民地に導入してしまったイギリスを、ジェファーソンは批判するつもりだったことがわかる。しかし、最終的には、宣言のその部分は南部の政治家の異議の下で取り消されてしまった。

とはいえ、ジェファーソンの奴隷解放運動はそこで終わらなかった。後のリンカーン大統領は別として、ジェファーソンほど奴隷解放に尽くした政治家はいなかったと言っても過言ではない。例えば、1769年(独立宣言より七年前)、ジェファーソンがバージニア州の議員として提案した州の奴隷解放令は法律になり損なったが、1778年には、ジェファーソンのおかげで、バージニア州への新奴隷売買は完全且つ永久に禁止された。

そして、1784年には、ジェファーソンが提案した「北西部条例」の一つの条件として、北西部から新しく合衆国に編集される州には、奴隷制廃止が義務付けられた。

最後に、大統領の任務中の1807年に、ジェファーソンは全国における奴隷売買の禁止令を発した。これがために、アフリカからの奴隷輸入は完全に止められた。それまでに輸入されてきた奴隷が同時に解放されなかったことは残念だったかもしれないが、更なる奴隷輸入が禁止されたことは大きな進歩だったことは否定できない。

2010年5月13日木曜日

「平等」と「自由」  (18)

「近代的な平等の概念は、恐らく王や貴族など支配者に対抗するための概念として、でっち上げられたのではないかと考えます。だからこそ、平等を真っ先に謳ったアメリカ独立宣言では正当化のために神が必要だったのです」

「国家の品格」第三章より。



ここでは、藤原氏は独立宣言の「前文」を言っているのだろう。

『我らは次の事実を諸々自明なものと解する。すべての人間は平等に創造され、作り主によって、本質的尚且つ侵すべからざる権利を与えられている。その中には、生存、自由、幸福の追求などの権利も挙げられ、これらの権利を守るためにこそ、被統治者の同意によって正当な権力を得る政府は用いられる』

アメリカ人なら誰でも小学校で暗記させられる、トーマス・ジェファーソンの名文だ。

さて、「平等」という概念を好まない藤原氏が「国家の品格」の第三章で言っているように、平等というのは、才能上、学習能力上、実際にはありえないものだから、意味のない概念なのだろうか? すべての人は同じ機会や経験を与えられないため、「平等」を夢見るのは無益な愚行だろうか? 

確かに、藤原氏が他の所で言っているように、当時のアメリカは奴隷制度の本場だった。しかも、「独立宣言」を執筆したジェファーソン自身も奴隷を所有していた。一見して「独立宣言」は矛盾だらけの偽善な文書に見える。やはり、「平等」というのは、「神」という迷信に頼ってしか正当化できない嘘なのだろうか?

言うまでもなく、私はこれもまた藤原氏のカリカチュア交じりの智子イズムだと思う。さて、それはなぜだろうか?

まず、人の才能や学習能力について言うと、それはもちろん藤原氏の言うとおりだ。ある人は美しく歌えて、ある人はまったく音痴である。ある人は計算が得意で、ある人はまったく頭が回らない。人生経験においても著しいばらつきがある。裕福な家庭に生まれる人もいれば、貧乏な一生を過ごす人もいる。良い伴侶とめぐり合う人もいれば、孤独な一生を過ごす人もいる。残念ながら、そういう意味では平等なんてものはありえないのだ。

だが、これは当たり前の現実であり、誰もが否定しないことだろう。独立宣言の前文で、ジェファーソンはすべての人間が同じ才能や学習能力をもって生まれ、同じように成長すると言っているわけがない。藤原氏だってそれを理解しているだろうが、「平等」という概念をなるべく愚かに見せるために、そんなカリカチュアを利用している。

では、独立宣言が訴えている「平等」というのは、本当はどういう概念だろうか?

それは、すべての人が法律上では、同じ価値があり、身分などによる差別はあってはならない、ということだ。それから、生まれ持った才能は何だろうと、生まれ持った知的能力はどの程度のものだろうと、誰もが自由に生き、幸福を追求する権利がある。独立宣言でジェファーソンはこういうことも訴えていたのだ。

同時に、独立宣言の平等への主張は当時のイギリスの思想であった「王権神授説」を否定する目的があった。確かにこれは王や貴族の支配への対抗を裏付ける考え方だったが、藤原氏の言う「でっち上げ」ではないだろう。どちらかといえば、繊細な理論に基づいた冷静な主張ばかりだった。「全人類の意見を尊重するならば,独立へと駆り立てた原因を宣言する必要がある」とジェファーソンが宣言で書いたように、宣言はイギリス国王に対する示威行動だったより、他の国々の人々や後世の人間(藤原氏を含め)などの理解を得るための文書だ。

独立へと追い立てられた理由は、二七個も宣言中にあげられ、中には次のようなものもある。

• イギリス国王は、植民地の公共の利益のために堅実且つ必要な法律の実現を認めなかった。

• イギリス国王は、人民の権利を主張する植民地の代議院を何度も解散した。

• イギリス国王は、植民地における司法の執行を自分の意志に依存させるために、判事の給料額や支払いを巧みに操作した。

• イギリス国王は、軍隊を管轄する権利を民間指導者から外し、民事司法を完全に軍部に委ねた。

• イギリス国王は、きちんと裁判もせずに、植民地で自分の兵隊が犯した様々な犯罪の処罰を免じた。

• イギリス国王は、植民地の人民たち自身の裁判をたびたび拒絶したり、もしくは、海の向こうにある本国へ被告を移送してから不平な裁判を行ったりもした。

でっち上げられた「平等論」ではなく、独立宣言の内容は、基本的な人権への妨害に対する具体的な訴えだった。

では、次回は奴隷問題の矛盾について考えてみよう。

2010年5月9日日曜日

自国語による文学登場 2 (17)

3182行にも及ぶ叙事詩「ベオウルフ」が書かれたのは、紀元700年頃とされている。作者が用いた言語は、5世紀半ばからおよそ12世紀まで、イングランドで使われていたアングロ・サクソン語だ。「古英語」とも呼ばれるこの言語は、現代の英語の中核として残っており、英語で最も頻繁に使われる100語の中でも、96語は古英語に由来している。I, you, heなどの代名詞、the, an, aという冠詞、 is, are, wasなどのbe動詞、一般動詞の get, come, write, goなど、前置詞の on, in, into, withなど、その他にも数多くの疑問詞、接続詞、助動詞……、英語の基本となる単語はそのまま古英語の時代から使われている。

「ベオウルフ」の他にも、石に彫られ、パーチメント(羊皮紙)に書かれ、現在残っている古英語の文書は沢山ある。韻文や詩歌だけではなく、聖書の翻訳文、聖人の伝記、神父の説教、歴史書、医学書、遺言書、公の記録(土地の売買や法律に関するものなど)、お守り、まじない……。その種類もまた豊富だ。

それぞれの文書から確認され、現代の古英語辞典に収録されている語数は二万語を超えている。日常の実用的な会話はもちろん、古英語は繊細な描写や表現を必要とする詩文にも向いていて、「ベオウルフ」はその巧みな表現力の証だ。基本的に冒険物語でありながらも、「ベオウルフ」の中には、抽象的な感情や情緒も上手く取り入れられている。城をグレンデルから守ろうとする歩哨たちの恐怖、息子を亡くす父親の悲しみ、愛国心や君子への忠誠、これらはみんな生き生きと描写されている。

こういう意味で、「ベオウルフ」は新文学の開幕を告げているのだ。冒頭にある「さて。我々は聞いている。古のデネ王家の栄光を、荒々しい勇士らの手柄を」の部分を、次のように言い換えても良いだろう。「さて、我々は、自分たちの思想・伝説・夢を、自分たちの言葉で伝える時代がやって来た! たとえば、古くからあるこの話を聞け!」

ただし、完成度の高い「ベオウルフ」は新文学時代の到来を最も強く主張しているとしても、それは決して珍しい存在ではなかった。中世は「自国語」による文学がどの地方でも芽生えた時代だ。

「ベオウルフ」のような叙事詩なら、ドイツやロシアにも、チェコやポーランドにもあった。北欧のエッダ神話の物語と詩集も、スペインの「わがシドの歌」もこの類の文学だろう。

それから、騎士道と共に現れ、中世文学や歌に大きな影響を与えたのは、数多く作られた武勲詩だ。豊かな想像力と遊び心を表すこれらの冒険物語には、恋愛、忠誠、裏切りなど、普遍的なテーマが基本となっている。様々な「アーサー王物語」やフランスの「シャンソン・ド・ジェスト」が武勲詩の代表作であり、未だに欧米人の心に深く根付いている。

イタリアのジョヴァンニ・ボッカッチョの物語集「デカメロン」には、中世独特の恋愛物語だけではなく、ペストの大流行時代における一般人の悲劇的な経験も生々しく描写されている。この本はチョーサーの「カンタベリー物語」にも大きな影響を与え、盛んに作られていたヨーロッパ諸国の文学は、互いに影響しあっていたことがよくわかる。文学による国際交流のルーツも中世にある。

ダンテ・アリギエーリの「神曲」が中世の作品だということも忘れてはならない。物語の主人公であるダンテ自身が、地獄に降りて、自分の罪に相応しい罰を受けている罪人の間を案内された「地獄篇」は、「神曲」の最も有名な部分だろう。だが、地獄篇・煉獄篇・天国篇を全部あわせた「神曲」は中世文学の最高傑作とも言える。叙事詩・武勲詩・ラテン語文学、それまでのすべての流れを受けて、絶頂に達したからである。

最後に、個人的な意見を述べるが、私にとって中世ヨーロッパ文学の何よりの魅力は、それが階級を問わず、すべての人間が参加した「大衆文化」であることだ。貴族の気高い遊びだけではなく、商売人、小百姓、軍人、修道僧……、社会の隅々から民衆の人間臭さが伝わり、中世文学は現代人の心にも直接訴える力に満ちている。

2010年5月7日金曜日

自国語による文学登場 1 (16)

「さて、我々は聞いている。古のデネ王家の栄光を、荒々しい勇士らの手柄を」。


英雄『ベオウルフ』の物語はこうして始まる。だが、一つの物語どころか、この言葉は、新しい文学時代を切り開く勇ましい喊声としても解釈することが出来よう。

とりあえず、物語のあらすじを見てみよう。

太古の昔、デネ王フロースガールは、新しい城を建設した後に、祝いの宴を催す。しかし、近くの洞窟に住む怪物、「呪われしグレンデル」は、楽しそうな祝宴の歓声と王の栄光に嫉妬して、連夜城の哨兵を襲うようになる。王に仕える剣士は何度もグレンデルに立ち向かうが、グレンデルは魔法で守られているため、勇士らはことごとく殺され、グレンデルに食べられてしまう。

12年間も続く夜ごとの虐殺の噂を聞き、海の向こうからやって来たのは、英雄ベオウルフだ。神に恵まれたベオウルフは、奇跡的な腕力でグレンデルに立ち向かい、怪物の腕をもぎ取り、討伐に成功する。フロースガール王と国の人々はベオウルフを祝福するために、感謝の宴会を開く。

だが、次の夜、グレンデルの母親である恐ろしい海の怪物が現れ、息子の復讐に挑んでくる。そのため、王の家来がまたまた虐殺されるが、ベオウルフはグレンデルの母親がひそむ海底までもぐり、彼女をも退治する。

自国へ帰り、国王となるベオウルフは50年間も政治を司り平和を保つが、その末には炎を吐くドラゴンが出現し、国を荒らしてしまう。年老いたベオウルフは死ぬ覚悟で、極悪な怪物ともう一度戦わなければならない。

最後のこの決戦の時、ベオウルフはドラゴン退治に成功するが、自分も致命傷を受けてしまったがために、国民のために命を捧げる結果となる。『ベオウルフ』物語は英雄の葬式の場面で閉幕となる。

2010年5月4日火曜日

ラテン語文学 (15)

中世の多くの書物は英語やフランス語ではなく、ラテン語で書かれている。これこそは、(日本や中国の古典に比べて)ヨーロッパの古典が少なく思われる理由の一つである。当時の国際語はラテン語だったので、自国以外の人に自分の作品を読んでもらいたければ、ラテン語で書くしかなかったのだ。現代では日本人の科学者が英語で論文を出すのとまったく同じ理由だ。

「中世のヨーロッパ人は文学的な価値のある作品を書き上げなかった」と主張するのであれば、大量のラテン語文学を無視していることになる。その中で、量と質の良さで特に目立つのは神学・哲学関係のものであり、「然りと否」などを書いたアベラールも忘れてはならない。しかし、何と言っても、ラテン語による「哲学系文学」の最高峰に立つのは、ドミニコ会員の博士、トマス・アクィナスだ。少しだけ、彼の人生と作品について述べよう。

1225年前後イタリアの貴族の家に生まれたアクィナスは、熱心な信仰心の持ち主であったため、家族の反対を押し切って修道院に入った。体が大きいアクィナスは学生だった頃には、口数が少ないため、同級生に「無口の雄牛」と、あだ名をつけられた。頭もさほど良くないと思われていたらしく、ある時、一人の上級生が親切のつもりで、論理学の基本をアクィナスに説明しようとした。しかし、自分の理解が足りなく、上級生が説明しきれない話題になってしまった時に、アクィナスは遠慮気味にその箇所を先輩に解き明かしてあげたそうだ。この時から、アクィナスは学生たちの間で少しずつ噂されるようになった。「もしかして、本当は頭がいいのではないか」と。

学生たちより確実にアクィナスの才能を認めていたのは、有名な教授、アルベルトゥス・マグヌスだった。ある日の授業中に教授は全員に向って次のように断言したそうだ。

「お前たちはこの男を『無口の雄牛』と呼んでいるが、私はお前たちに言っておく。全世界に響き渡る大声で、彼はいつかほえ出すだろう!」

教授の予言どおり、とうとうほえ出したアクィナスは、「スコラ学」の第一人者となり、アクィナスの最高傑作は、ラテン語で書いた「神学大全」である。

中世のどの哲学者も目指していたのは、信仰と理性の調和であった。言い換えれば、「聖書の言葉」と「アリストテレスの教え」の融合を求めていたのだ。その努力の結晶であった「スコラ学」というのは、特定の思想や哲学の分野ではなく、ある思考法の名称である。つまり、スコラ学は、推理の原則に従って、議論の矛盾や誤りを発見して、徐々に真理を導き出す方法だった。3000ページにも及ぶ「神学大全」はスコラ学の特徴と成果を最もよく表している書物でもある。

アクィナスが、「神学大全」の中で取り組んだ論点は三百以上ある。テーマ別にアレンジされているこれらの論点は、すべて「YES」か「NO」で一旦答えられる疑問形式で表現され、これが「神学大全」の大きな特徴である。要するに、アクィナスは「神とは何なのか」についていきなり語り出すのではなく、「神は存在するのか」、「神の存在を証明できるか」のように、大きなテーマを噛み砕き、少しずつ明確に説明するように工夫していた。

そして、それぞれのテーマを定義してから、アクィナスが先ず最初に挙げるのは、各論点に関する反対の意見だ。例えば、「神は存在するのか」という章には、最初に挙げられるのは、神の存在を否定する考え方の例とその詳しい説明だ。

いろいろな視点から反対意見を挙げてから、アクィナスが次に挙げるのは、論点を裏付ける考え方や理屈である。しかし、ここで最初に用いられるのは、アクィナス自身の思想ではなく、教父たちの言葉や聖書の引用だ。過去の学者や伝統的な教えへの深い敬意がよく伝わる。

引き続き、アクィナスはやっと自分の意見を詳しく述べるので、この部分はそれぞれの論点に対する「本文」であると言っても良かろうが、ここで終わりではない。最後にアクィナスは、もう一度反対の考えに焦点を当て、なぜそれが間違っているのか、ということについて丁寧に説明する。

言うまでもなく、智子イズムと正反対のやり方だ。

スコラ学独特のこの論法がわかりやすいため、アクィナスの言葉を読んでいると、まるで筆者と直接語り合っている気になれるのは何とも言えない楽しさがある。しかし、「神学大全」の何よりの魅力はアクィナスが選んだそれぞれの論点の内容そのものだ。

神の存在や特質、いかにもキリスト教の神学書にありそうなテーマはもちろんだが、アクィナスの志は大きく、それ以外にもかなり幅広い学術と薀蓄を披露してくれるのだ。善と悪の性質、人が目指すべき美徳・避けるべき悪徳、「正戦論」という戦争についての考え方など、アクィナスは、倫理学について鋭い評価と判断を繰り広げる。愛とは何か、憎しみとは何か、幸せや人生の目的とは何か、人類の永遠のテーマであるこれらの問題も取り上げられ、法律の基盤とは何か、不正な法律に対する対応の仕方など、かなり実践的な政治学・法律学の話も取り上げられる。認識論、美学、心理学……。アクィナスはどんな分野にも関心を寄せ、アリストテレス以来の天才だった。

本題に戻るが、アクィナスと彼が執筆した「神学大全」は、中世哲学の最も素晴らしい例だとしても、ここで認めなければならないのは、歴史の知的空白の中にアクィナスがぽつんと現れたわけではないことだ。つまり、アクィナスの前にも後にも、中世では大いに活発な研究と思考が行われていたのだ。他の思想家の哲学書や神学書も沢山あり、今日存在する中世のラテン語文学の原稿よりも、失われてしまった分の方が遥かに多いともされている。

現代人に読みやすい英語やフランス語で書かれていないがために、このような宝石の山を「文学がなかった」と簡単に否定することは大きな間違いだ。

2010年5月3日月曜日

西洋の文学 (14)

『よほどの文学好きでない限り、5世紀から15世紀までのヨーロッパの生んだ文学作品を3つ挙げられる人は少ないのではないでしょうか?
 英文学も今では威張っていますが、有史以来1500年までの間にどんな作品が生まれたか。『カンタベリー物語』ぐらいしか浮かばないでしょう。』

「国家の品格」第一章より。


「いやー、それを言うんだったら、『カンタベリー物語』ではなく、『ベオウルフ』だろう」と、これを読んだ時に私は思った。

だが、古い英文学の代表作が『カンタベリー物語』だろうと、『ベオウルフ』だろうと、藤原氏のこの考え方もまた納得できない。純粋な無知からの発言なのか、相手を悪く見せることによって日本の古典文学をより美しく見せるために利用したカリカチュアなのか、私には氏の意図がわからない。だが、氏の言葉を通してすぐに連想させられた子どもの頃の思い出がある。

「僕のお父さんは君のお父さんより強いよ。いつだって吹っ飛ばせるぞ!」

喧嘩に自信のない幼稚園児の言葉として、このような言葉はアメリカでは有名だ。悔しさのあまり、思わずこぼしてしまう父への思いも伝わり、ある意味では可愛らしいセリフかもしれない。

ところが、「我々の文化の方が、そっちの文化より古くて、立派なんだ……」のように、このセリフが進化して、文化・文明の優越主義的な思想に繋がると、その可愛さはちっともなくなる。何となく、藤原氏の発言はこのような心理から出ている気がするので、普通だったら、相手にしたくもない。だが、ここでは見てみぬ振りをしたくても、カリカチュアを正すために、反論を述べよう。

2010年5月2日日曜日

「国家の品格」について。 現代 vs 中世  (13)

こうして、案外明るかった「暗黒時代」の話をいくらでも挙げられるが、中世の暗い面も認めなければならない。貴族や庶民、すべての人を巻き込んだ戦争や、急激に広まった疫病もまた中世の大きな特徴だった。

しかし、イタリアのボローニャで起こった興味深い話を一つ挙げよう。

大人の男性一人と猫一匹を戦わせる試合が企画され、そのために大きな檻も用意されたそうだ。この檻の中で戦うため、猫は逃げられなく、男は簡単に勝つのではないかと思われるが、猫を 噛み殺す ことが決まりだった。しかも、手を一切使わずに戦わなければならなく、男の目が猫にやられれば失格となる決まりになっていた。

残酷そのものの企画だ。こんなことを考え付くことからして、当時の人間はやっぱり野蛮だったとも思われるかもしれない。ところで、この惨い戦いを目にし、驚きながらブーイングで止めさせようとした人たちもいたらしい。それはボローニャ大学の学生たちだった。

怖いもの見たさ。気持ち悪いもの見たさ。このような歪んだ好奇心はどんな時代にもあるようだ。例えば、最近は拷問や人殺しを見せ物にする日本やアメリカのホラー映画は、これと同じ心理から生まれ、偽物とはいえ、「猫対決」の話を遥かに超える恐ろしさがあるとも言えるだろう。

もっと大きく言えば、戦争もまたどの時代にも起こるが、中世どころか、20世紀の戦争こそが人類の歴史の中でもっとも恐ろしい戦争だったとも言える。強制収容所・大量虐殺・民間人を巻き込む空襲・毒ガス・生物兵器……。これらはすべて我々の時代の出来事である。

下品で暴力的な見せ物にしろ、国の政策として行われる戦争にしろ、争いを亡くす努力があるとすれば、その第一歩は個人個人の反対の声だろう。そして、もしそうだとすれば、我々は「暗黒時代」の学生たちから未だに学べることがあるようだ。

疫病についても、一つ言えることは、当時のどこの国や地方でも同じ状況だったことだ。例えば、カール大帝と同じ時代の日本では、天然痘が流行って数多くの人々が犠牲者となった。島国の日本でも、ワクチンや抗生物質が発明される以前の世の中は至って危険な場所だったわけだ。中世ヨーロッパは、領土も広く、民族同士の交流が盛んだった。中近東・アフリカ・アジアとの貿易などもあり、逆に言えば、疫病の広まりがなかったならば、その方が不思議だろう。

ちなみに、現代医学の奇跡的な発展にもかかわらず、過去30年間で25,000,000人以上のエイズ患者が死亡している。平成2年にはHIV感染者は8,000,000人だったが、20年後の平成22年はどうかと言うと、感染者はなんと33,000,000人にまで上昇している。エイズで親を亡くしたアフリカの孤児は14,000,000人を越えている。

過去を「暗黒時代」と呼び、馬鹿にする資格は本当に我々にあるのだろうか?

過去についての悪質なカリカチュアは、我々現代人のためになるのだろうか?

2010年4月30日金曜日

意外と明るかった「暗黒時代」 (12)

では、「野蛮だったヨーロッパ」の「さほど野蛮ではない」事実を、他にも少し挙げてみよう。

• 「三圃式農業」が開発された。穀物用、豆類用、休耕地に畑を区分し、そのローテーションを毎年組むことにより地力低下を防ぎ、収穫量を上げることができた。

• 水車を利用する製粉場が徐々にヨーロッパ全土に広まった。1086年のイギリスには5624ヵ所も記録されている。

• 頸木(くびき)などが改良され、以前のように首に直接プレッシャがかからなくなったので、馬や牛に鋤(すき)を引かせる際には、何倍も効率よく土を掘り起こすことが出来るようになった。

• 蹄鉄(ていてつ)も一般に使われるようになり、家畜の労働率が更に上昇した。ちなみに、蹄鉄用の釘を一定の大きさに定める必要があったので、金属加工の技術はいかに進歩していたことがうかがえる。

• 城や大聖堂を建築するための工学技術が常に発達していた。前述のアーヘン大聖堂もその一つだが、中世に多く建造された建物の中に、ウェストミンスター寺院やカンタベリー大聖堂、ノートルダム大聖堂なども代表的なものである。

• オックスフォード大学(1096年)、ケンブリッジ大学(1209年)、パリ大学(1090年)、ボローニャ大学(1088年)などは中世に創立され、その他にも、現代に至るまで教育活動を続けてきた中世の大学は少なくとも50校もある。

• 誰の家にも風呂がある現代人には負けるかもしれないが、中世の人間はかなりの風呂好きだったらしい。清潔面では19世紀のヨーロッパ人にも勝っていたという説もある。庶民も銭湯を頻繁に利用して、お湯に香水を入れたり、バラの花びらを浮かべたりする風習まであった。

• 中世の食材は何となく限られていたイメージではあるが、実際には、今存在するほとんどの野菜類や果物が栽培されていた。チーズ、パン、魚も庶民の食べ物だった。ケーキ、ウエハース、ジャムなど、贅沢品のレシピーも残っている。肉を中心に食べていた貴族は生活習慣病に患われる程だった。

• 医者は少なく、医学そのものは原始的だったとはいえ、胆石や癌、ヘルニアなどの手術は行われていた。ばい菌などの詳細はまだ明かされていなかったのに、消毒用にアルコール(ブドウ酒)や焼灼が使われ、無菌の卵の白身を傷口に塗って包帯で巻いていた。

• 13世紀のパリには病院は12軒もあった。入院手続きの一部として患者の体を洗い、シラミなどの服の消毒も行われた。看護師として働いた尼や在家のボランティアは、患者の体を毎朝洗い、ベッドのシーツを頻繁に変えていた。病室は花で飾られていたそうだ。

• 中世後期には、イギリスの病院は400軒もあり、宗教改革までにはその数が750軒までのぼっていた。

• 数学の進歩を妨げるものには、ローマ数字での計算の難しさがあった。だが、13世紀にアラビア数字が主流となり、簿記などが楽になっただけではなく、数学に対する意欲も出てきた。三角法などもこの頃から一般に知られるようになり、ルネサンス期に見られる著しい進歩の土台が徐々に築かれた。

• 西洋文学の原点も中世にあり、叙事詩・抒情詩・小説・エッセイ、旅行記・演劇など、みんな盛んに書かれていた。

• トルバドゥールなどの吟遊詩人の存在は、一般人と貴族の歌や音楽への関心を示す。

• 写本などのイラストレーション、金細工、彫刻、刺繍……。中世には豊かな職人文化や芸術も存在していた。

2010年4月29日木曜日

「暗黒時代」という言葉 (11)

藤原氏が指摘している5世紀から15世紀までの期間をまとめて中世と考えることにしよう。千年間もの大陸の歴史を一つの時代として取り上げることなんて、いきなりニュアンスに欠けており、最初からカリカチュアっぽいが、その辺はここでは仕方なく認め、大切なところにだけ焦点を当てよう。

先ず言えることはこれがローマ帝国崩壊後の時代だ。中世の「中」というのはローマ崩壊からルネサンス期の始まりの間を暗示して、二つのいわゆる黄金時代の間を指しているわけだ。

俗ではこの千年間を「暗黒時代」と言うことは未だにある。つまり、古代ローマやギリシアの学問と社会的秩序が乱れてしまったため、人々の心は迷信に支配され、ヨーロッパの諸国は完全に退化してしまった。大陸全土が無知・暴力・疫病に患われ、ルネサンス期の光がさしてくるまでは、どの民族もまるで闇の中をさまよっていたような状態だった。

藤原氏の「野蛮だったヨーロッパ」も、まさにこんなイメージではあるが、はたしてこれは正確な歴史像なのだろうか?

「暗黒時代」という言葉やイメージは、一般の欧米人の間でも深く根付いている。だが、歴史家の間では「暗黒時代」という言い方を用いる人はもはやいないようだ。しかも、中世についての理解が深まり、「暗い」印象を変えるような研究が為され始めたのは、既に百年以上も昔の話だ。

では、「暗黒時代」という言葉はいったい誰が最初に使ってしまったのだろうか? 通常なら、それはなかなか難しい質問だ。ある言葉が使われ始めた時代や環境が定かでも、最初に言い出した個人の名前までは予想の付かないことだろう。しかし、この場合の答えははっきりしている。紀元1300年代のイタリア人、フランチェスコ・ペトラルカだ。つまり、中世を実際に生きていた人物だ。

ペトラルカは詩人だった。そして、イタリア語の抒情詩を得意とするだけではなく、古代ローマの文学に魅せられた彼は、ラテン語文学を古代の美しさに復興させたかったわけだ。比喩的な表現力に富んでいたペトラルカは、「光と闇」という象徴的な言葉を利用して、中世におけるラテン語文学を批判した。つまり、ラテン語を上手に書く筆者が稀に現れたにもかかわらず、彼らは例外であり、ラテン語に対する時代の「暗闇」に包まれていた。この言葉こそが、中世ヨーロッパの「暗黒時代」呼ばわりの始まりだ。

ところが、カリカチュアと智子イズムは、どの時代の人々にとって便利なものであり、文学批評の比喩として生まれたこの言葉は、まったく違う意味でも使われるようになった。例えば、宗教改革中に、プロテスタントの思想家は中世の権力者であるカトリックの聖職者やローマの教会そのものを批判するために、「暗黒時代」という言葉を借りた。「人々の心がローマに支配された長い「暗黒時代」が終わり、新たな真理が世に出た!」といった具合だろう。

さらに時が経つと、ヴォルテールなど、啓蒙時代の思想家たちも、「暗黒時代」という標語を利用した。しかし、今度はキリスト教全般をけなすためであり、彼らの時代からは、反宗教的な使い方が圧倒的に多かったようだ。だが、中世は確かに戦争の多い時代であり、疫病や貧困の時代でもあった。したがって、これらの意味も徐々に入り込むことは避けられなく、「暗黒時代」という言葉が、あらゆる意味において「野蛮だったヨーロッパ」を指すようになるまでは、時間の問題だったかもしれない。

では、19世紀・20世紀になってくると、なぜ歴史家たちの考え方が変わってきたのだろうか? 中世を見直した理由は何だろう?

それは、考古学による画期的な大発見によることでもなければ、難しい内容の研究によることでもない。簡単に言えば、皆落ち着いて、よく考えるようになっただけだ。何百年も続いた宗教に対する感情的な反発も治まり、振り返ってみると、中世の歴史が思ったより複雑で興味深いものだったのだ。

例えば、フランク王国の国王、カール大帝の話がある。在位期間の紀元768年(日本で言えば、聖武天皇在位中の奈良時代)から 814年の間、現代で言う西ヨーロッパ(イギリスを除く)はほとんど統一され、大帝の政権は教育や芸術を発展させられるほど安定したものだった。

ラテン語を流暢に話せた大帝はギリシア語も多少できて、古代の学問に興味を持っていた。宮殿で学校を開き、貴族の間に古典的な教育を広めようとしただけではなく、古代の学問を後世に伝えるために、大帝は国中の修道院で古典の写本を僧たちに作らせた。今日存在するラテン文学や演説の九十パーセントが、この時の写本でしか残っていないのだ。皮肉なことだが、ラテン文学の「暗黒時代」を喚いたペトラルカも、その時代の最も有名な王に感謝すべきだったのだ。

カール大帝が建設を命じたアーヘン大聖堂は805年に完成され、千二百年もたった今でも、八角形の美しい宮廷礼拝堂は訪れる人の心を魅了している。だが、教会だけではなく、大帝は橋や運河の建設にも力を入れたらしく、いわゆる土木事業にも大変な関心を寄せていた。

重々しい威儀・祭礼・儀式などを好まなかった大帝は、宮殿の門に鐘を設置した。どんなに身分の低い人でも、王に訴えのある人がいれば、その鐘を鳴らすと、大帝に直接会うことができたそうだ。

なかなか進歩的だったこのカール大帝の没後には、相応しい跡継ぎが現れなかったことは実に残念なことだ。だが、「理想的な王」として彼の評判は確実に後世に伝えらたため、後世の多くの権力者が影響を受けたに違いない。

ヨーロッパの「暗黒時代」 (10)

『産業革命はイギリスで起きてしまいました。アフリカ、中南米、中近東はもちろん、日本や中国でさえまったく起こりそうな気配がなかった。と言うと、いかにも欧米の白人が優秀で、ほかの民族が劣等であるかに思えてきます。しかし、事実はそうではありません。例えば、五世紀から一五世紀までの中世を見てみましょう。アメリカは歴史の舞台に存在しないに等しい。ヨーロッパも小さな土地を巡って王侯間の抗争が続いており、無知と貧困と戦いに彩られていました。「蛮族」の集まりであったわけです。』    「国家の品格」第一章より。

欧米独特の論理への執着によって、世の中はやられてしまっている。この「論理馬鹿仮説」が、藤原氏の大きな主張であり、前章ではそれを見てきた。だが、そういう流れから考えたとしても、藤原氏がなぜ中世ヨーロッパをこうも批判しているのかが、正直に言うと、私にはよくわからない。なぜなら、論理への執着などがあったとしても、それはルネサンス期以降の話であって、中世がどうのこうのというのはあまり関係ない気がする。

しかし、藤原氏がまたカリカチュアにより、読者の欧米人に対する気持ちに訴えようとしているだけだとすれば、批判の理由がわかる気がする。つまり、中世ヨーロッパの批判は、サルに似せられたブッシュ大統領の似顔絵やナストの描いたワニと同じだ。それに、「国家の品格」の他の場所では、「槍一本でライオンを倒せるマサイの勇士」に対して「鉛筆より重いものを持ったことのないような非力な白人」が挙げられ、「闘争好きな欧米人」や「こんな奴ら」のような言い方も使われている。「欧米人に対する差別じゃないか!」と、大げさなことを私は言わないが、藤原氏は、対人論証や悪質なカリカチュアを利用することには、どうやら何の抵抗が無さそうだ。だったら、そうした時にはそれを指摘せざるを得ないのだ。

そもそも、「中世ヨーロッパ」という言い方は、どの時代を指していて、その時のヨーロッパはどんな世の中になっていたのだろうか?

2010年4月28日水曜日

欧米に於ける論理の束縛 2 (9)

倫理について少し考えよう。

『人を殺していけないのは『駄目だから駄目』ということに尽きます。『以上、終わり』です。論理ではありません。このように、もっとも明らかのように見えることですら、論理的には説明出来ないのです。』
                    「国家の品格」第二章より。

これは立派な言葉だ。藤原氏の言うとおりだろう。だが、氏の言うように、これもまた欧米では理解されていないのだろうか?

そんなはずはない。

カントの至上命令や、ベンサムとミルの功利主義など、理屈っぽい倫理思想は確かにある。だが、藤原氏の言う「駄目だから駄目」のような、いわゆる先天的な概念こそが、倫理学の基本であることも、欧米では理解されている。ここでは、そんな話を深く追求しない。なにしろ、大半の人はカントの書物を手にすることは先ず無い。欧米における倫理観の本当の原点を追求した方が有益だろう。

そもそも欧米の倫理学の土台は何なのだろうか?

明らかに哲学ではなく、宗教だ。具体的に言えば、キリスト教の教えだ。キリスト教は欧米において二千年もの歴史があるので、そのルーツは非常に深い。「僕は無神論者だ。宗教なんか嫌いだ」と言う人もいるかもしれないが、欧米人である限り、キリスト教独特の倫理観の影響を多少なりとも受けているはずだ。親のしつけ、学校の教育、映画、文学……、何にでも染み込んでいる思想だからである。

では、キリストの道徳的な教えを少しだけ見てみよう。「山上の垂訓」と呼ばれるキリストの説教の中に出てくる言葉がもっとも代表的だろう:

「目には目を、歯には歯を」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もしだれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。

あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。

「隣人を愛し、敵を憎め」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らしてくださるからである。

「非合理そのものだ」と言えるほどの話であるが、同時に、欧米人の心にこれほど強く語りかけてくる言葉はないのだ。そして、このような言葉こそが欧米の倫理観の中核となっている。最後に、欧米人であれば誰もが聞いたことがある「八福の教え」を挙げよう:

こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。  
悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。  
柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受け継ぐであろう。 
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
平和を作り出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである   

理屈を加え、キリストの教えを拡大させようとする人、言葉遣いや比喩を現代化させようとする人、すべてを否定したり、無視したりしようとする人。こうして、先祖の受け継ぎに対する反応はいろいろあり、人それぞれの生き方がある。ただし、はっきりと言えることは、受け入れるにしろ、拒むにしろ、欧米の倫理観の土台になっているこれらの教えを意識しない人はいないのだ。宗教から離れつつある現代社会においても、キリスト教的な倫理は我々の心に未だに深く根を張っている。

                   *****

今までの話は次のようにまとめることが出来る。 

• 論理の原則を尊重しながらも、「形式的誤謬」と、「非形式的誤謬」を基本事項として教える欧米の哲学、

• 議論の前提をしっかり見つめ、現実を把握しようとする欧米のビジネスマン、主婦、小学生の議論の仕方、

• 勘に頼り、感情に促され、とっさにひらめき、偏見と先入観で物事を判断する欧米の人々の根本的な人間らしさ、

• 潜在意識より湧き上がる宗教の教えに導かれる欧米の倫理観、

私は以上のことを考えると、欧米人が、かたくななほどに論理に執着しているがために、道に迷った哀れ・滑稽・危険な人々であるとは、とても思えない。どちらかと言えば、勉学・仕事・育児などに日々努めながら、時には成功して、時には失敗する、至って普通の民族に思われるのだ。他の国の文化と同じように、欧米独特の文化にも、賞賛に当たる部分も批判すべき部分もある。

だが、藤原氏の説く「論理馬鹿」というのは、どこにも見当たらない。

欧米に於ける論理の束縛 1 (8)

「国家の品格」をもう一度引用しよう。論理だけでは人間社会の様々な問題を解決することができない理由について、藤原氏が語っている所だ。 (第二章より)

『先ず第一は、人間の論理や理性には限界があるということです。すなわち、論理を通してみても、それが本質をついているかどうか判定できないということです。』

要するに、どんなに合理的な提案でも、それは現実に通用するかどうかはわかりかねる。だったら、合理的な解決法だけを求めたり、むやみに論理に頼ったりしてはならない。

なるほど。それは確かにそのとおりだ。欧米の文化には、藤原氏が言うほど論理にこだわる傾向が本当にあるのであれば、それは大変なことかもしれない。誰もがその危険性を認めるだろう。

さて、自分の子どもの可愛さしか見えなくなってしまった人を「親馬鹿」と言い、釣りにはまってしまっている人を「釣り馬鹿」と言う。こんな言い方にちなんで、「欧米人は論理にこだわり過ぎだ」という藤原氏の批判を『「論理馬鹿」仮説』と呼ぶことにしよう。

しかし、幸いなことに、藤原氏のこの主張は、カリカチュア交じりの智子イズムに過ぎない。先ず私自身のある経験を挙げよう。

私は小学生の時から算数や理科の勉強より国語や社会の授業の方が好きだった。あの頃から私は完全に文系の人間だったようだ。だが、受けてきた授業の中で特に印象に残っているのは、大学で受けた数学教授による講義だ。

その日、教授は「10+3は?」といきなり聞いてきた。「やれやれ、文系の私たちをからかっているんだね」と私は先ず思った。だが、同級生の一人が「13だろう……」と答えると、教授はにっこりと笑いながら話し続けた。

「まあ、普通に考えればそうだけど、10+3=1ということもありえないだろうか?」

その時、私は、「ああ、そうか。時計だね」と思い、手を挙げてみたが、悔しいことに教授は他の人を指してしまった。

時計上の算数では10+3=1(十時に始まった授業が三時間続けば、終わる時刻が午後一時だ)というのが確かに教授の求めていた答えだった。そして、その例の次に、数学に於ける「相対性」というテーマで教授が講義をはじめた。単純に考えがちな算数でさえ、それを裏付ける「論理」を変えてしまえば、実に見事な多様性が生じる。彼はこういう話が好きだったらしく、とても嬉しそうに話していたことを今も覚えている。

ちなみに、教授はこのような話もしてくれた覚えがある。

• どのような主張にも前提があり、その前提の定義次第で最終的な結論は決まってしまっている。

• この論理の「相対性」を悪用し、思うがままに研究の結果や議論のいきさつを操ってしまうことができるので、そんな詭弁家には要注意だ。

• 当然のように受け入れられている仮説でさえ、根本的な前提に問題が発見されれば、その常識が引っくり返されることがよくある。したがって、学者も、社会人も、物事を柔軟に考える必要がある。

どうやら、この教授にとっては、数学・論理学は教室や研究所で使う仕事の道具だけではなかったようだ。それどころか、そういう学問は彼の日常生活や対人関係にまで影響を与えていたのだ。

ここで強調したいのは、教授の性格だ。つまり、論理学などが完全に染み込んだ人物であったにもかかわらず、カチカチな「近代的合理精神」しか通用しないようなロボットではなかった。がむしゃらに理性だけを追い求める頑固な性格でもなかった。逆に、論理による相対性を充分認めていた上で、自分自身に考え方の柔軟性を求め、私たちにもそれを伝えようとしていた。

「非合理は確かに好まない。だが、ある物事が合理的だと思われても、議論の前提を確認し、なおさら注意深く考える」。藤原氏の説く「論理馬鹿」ではなく、こういう考え方こそが欧米に於ける理想的な思考法だ。

つまり、論理を通したり、形式的誤謬や非形式的誤謬を避けたりする以外にも、欧米の論理学には、大切な役割がもう一つある。それは、前提を常に意識させ、現実的な議論をはかどらせることだ。

「ああ、なるほどね。まあ、言っていることはわかるよ。だけど、もし○○が本当に△△じゃなかったら、話はぜんぜん違うだろう。とりあえずそのへんを確認しましょう」

これは、相手の話の辻褄が合うことを認めながら、前提の確かさを確認させようとする反論のセリフだ。会社の会議室、学校の校庭、裁判所、議会(国会)議事堂、スーパーマーケットの駐車場……。どこへ行っても、何かしらの形で聞こえてきそうだ。藤原氏が描く「論理馬鹿」が本当に存在していたら、人間社会では生きてはいけないだろう。ましてや、それが欧米社会全体の基本的な考え方であるとは、ありえないだろう。

「論理馬鹿」になっているどころか、論理とまったく関係がない類の判断を欧米人は日々下している。藤原氏のカリカチュアに反論するため、ここまで当たり前のことを言わなければならないことはおかしいとも思うが、欧米人は勘や感情、とっさのひらめき、予めの道徳的信念、先入観や偏見などで、素早く物事を判断することがある。論理的な過程を踏まえた上での判断より、そのような形で判断を下すことは圧倒的に多いのではないだろうか? 人間なら誰だって生まれ持った性質だ。

中世ヨーロッパと論理学 (7)

確かな知識を目指す論理学がローマ帝国崩壊後にヨーロッパへ伝わった時、大きな刺激を受けたのは、中世の聖職者と神学者だった。12世紀を代表する学者、ピエール・アベラールもその一人であり、彼の著作「然りと否」は、論理学が当時の学問にどのような影響を与えたかを物語っている。

アベラールは、「然りと否」の中で初期のキリスト教の指導者たちの発言(158)を収録しているが、それらはすべて、アベラールが「矛盾している」と判断したものばかりだ。とはいえ、教授であったアベラールの真の目的は、教父たちを批判することではなく、このような矛盾をどう解決できるかを、彼の生徒たちに考えさせることだった。したがって、「然りと否」は論文ではなく、「教科書」と呼んだ方が良いのかもしれない。

「然りと否」の序文の一部を引用しよう: 

『私は、教父たちの格言を収録し、その中にある「矛盾」について討論問題を作成した。これらの問題に刺激され、読者が熱心に真理を追究することによって、新しい知恵に導かれれば幸いである。

真の知恵を得るには、「疑問」を絶えず抱かなければならない。この原則を理解していたアリストテレスは、物事を疑問視する精神を何より強調した。『カテゴリー論』の中で、アリストテレスは次のように述べている。「常に討論する以外に、望ましい結論に至る方法はない。何事においても、詳細に対する疑問を抱くことは大いに有益なことである」。

疑問を抱くことによって、人は考察するようになり、考察することによって、人は真理に導かれるのだ。』


現代の哲学の教科書に出てきてもおかしくない言葉だ。教育や真理の追究に対するアベラールの熱い思いが伝わり、めざましい進歩を見せる現代科学も、このような考え方に基づいていると言っても過言ではないだろう。

当時は、何千人もの学生がアベラールの元に集まったため、彼だけが新しい哲学に燃えていたのではなく、中世ヨーロッパには、好奇心にあふれ、学問に励んでいる人は大勢いたことがよくわかるのだ。

古代ギリシアの「論理学」に引火し、一気に燃え出した中世ヨーロッパの「合理精神」、これは正に今も燃え続ける欧米哲学の灯火だ。

だが、藤原氏が言うように、欧米人は本当に論理の輝きに目が眩んでいるのだろうか?

「誤った論法」 (6)

アリストテレスがわかりやすく解き明かした「推論の世界」、これこそが論理学の活躍する領域である。具体的に言えば、論理学の目的は推理の過程を正しく定めることだ。

推理の過程に過ちがあれば、どんなに理屈をこねても、真理を導き出すことは出来ない。これを認めたアリストテレスは、正しい論法を教えるだけではなく、さまざまな誤った論法について後世の哲学者に警告を与えた。

アリストテレス(あるいは後の哲学者たち)が指摘した「誤った論法」は沢山あるが、代表的なものをここで見てみよう。

後件肯定の虚偽: この論法を「もし○○であれば、△△である。実際に△△である。だから○○である」と表記してもいいだろう。言葉に置き換えれば、次のようになる。「太郎が自分の妻を殺したならば、彼は悪人である。太郎は悪人だ。だから太郎は妻を殺したのである」。明らかにおかしい推論だ。太郎が悪人だとしても妻だけは愛しているかもしれない。

前件否定の虚偽: これを「もし○○であれば、△△である。実際には△△ではない。だから○○でもない」のように表記して、次のように言い換えよう。「太郎が自分の妻を殺したならば、彼は悪人である。実際には妻を殺していない。だから太郎は悪人ではない」。これもおかしい。妻を殺していなくても、他の意味で太郎は悪人だというのは充分ありえる。

媒概念不周延の虚偽: 「一部の○○は△△である。一部の△△は××である。だから一部の○○は××である」。つまり、「一部の新生児は女性である。一部の女性は妊婦である。だから一部の新生児は妊婦である」。ありえない! 
しかし、次の例ははどうだろうか? 「一部の政治家は嘘つきである。一部の嘘つきは泥棒である。だから、一部の政治家は泥棒である」。確かに嘘つきの政治家は世の中に多い。公金を横領する政治家も残念ながら珍しくない。一見して、この推論ならば何となく通っている気もするが、やはりこれも論法として誤っている。嘘をついている政治家と公金を横領している政治家はきれいに分かれているのかもしれない。


以上三種類の論法は、推理過程上の形式的な問題があるため、「形式的誤謬」と呼ばれている。だが、この他にも、アリストテレスは議論中の内容に当てはまらない論法や推理の前提に問題がある論法などを誤った論法として指摘している。

例えば、「道路の真中に立ち、通行中の車を差し止めることは迷惑である。お巡りさんは道路の真中に立ち、通行中の車を差し止める。だからお巡りさんは迷惑である」。これは形式上の問題というより、「道路の真中に立ち、通行中の車を差し止めることは迷惑である」という前提には例外があることを無視しているのが問題だ。「例外の撲滅」と呼ぶこの誤った論法の他に、前述のわら人形(ストローマン)論法などもあり、この類は「非形式的誤謬」と呼ばれている。

他の例も見てみよう。

多数論証: 「皆駄目だと言っているから駄目なんだ!」。しかし、皆が間違えているのかもしれない。

同情論証: 「先生、お願いだから……。この授業の単位を取らないと、僕、卒業できなくなる!」。 可哀想だが、仕方がない。落第したくなかったら、宿題を提出すれば良かったじゃないか。

論点のすりかえ: 「だって、宿題をやろうと思ったら、妹が部屋に入ってきて、勉強の邪魔をした。あいつはいつもそうなんだ……」。こんな時に、妹の話をされても……。

脅迫論証: 「こっちから先に攻撃しないと、相手は何をしてくるかわからないぞ! 出陣だ!」。気持ちはわかるが、よく考えてから行動した方が良いだろう。

対人論証: 「あいつが言っていることは嘘に決まっている。だって、右翼(左翼・弁護士・ユダヤ人……)じゃないか?」。でも、右寄りの人だって(左寄りの人だって、理屈っぽい弁護士だって)まともなことを言う時がある。とりあえず、話を聞こう。ちなみに、人種差別は止めようよ。

 
さて、こうした誤った論法は何十種もあり、正しい論法と一緒に勉強されることが論理学の真髄だ。

論理学の父・アリストテレス (5)

「……論理だけでは人間社会の問題の解決は図れない……。 これは欧米人にはなかなか理解できないようで す」               
               「国家の品格」 第三章より。


欧米人の考え方には、こんなに大きな盲点が本当にあるのだろうか? その質問に取り組む前に論理学そのものについて少し考えてみよう。

論理学の原点は古代ギリシアにある。紀元前4世紀にプラトンの弟子だったアリストテレスは幅広い学問を究め、「哲学の父」、「科学の父」、「政治学の父」などと呼ばれるようになった。もちろん、彼こそが「論理学の父」でもあったのだ。

それから、哲学には、「認識論」という分野がある。知識はいったい何なのか? どうやって知識を得るのか? こういう素朴な疑問が認識論の研究課題であり、アリストテレスは知識論にも大きな影響を与えている。

例えば、アリストテレスによると、人間の知識の起源は、五感の刺激作用である。つまり、世の中のさまざまな物や現象を見たり、聞いたり、触れたりすることによって、私達はそれぞれの対象物に対する直感を得られる。こうした五感の働きはアリストテレス独特の知識論の始まりだ。

そして、第二段階はその直感が概念化されることである。直感的な印象が記憶され、その記憶が「○○は△△である」、もしくは「○○は△△ではない」というふうに分類されることだ。

ところが、ある物は「○○である」、「○○ではない」と記憶することが第二段階の限界である。「現象Aと現象Bは影響しあっている」のような深い思考には至らないのだ。

今までの話をまとめると、炎に手を近づける時に感じる痛みは五感による直感であり、それは知識の第一段階である。そして、「炎は熱いんだ」、「炎は危険だ」というふうに直感が概念化され、記憶されると、それは第二段階である。まだまだ単純そのものの知識だ。

ところで、第二段階よりさらに一歩進めば、知識は推論の領域に入り、はじめて深いニュアンスを得られる。つまり、わかっている事実を前提にすれば、推論を使って新しい結論を導き出すことができる。

「火は熱いけど、熱く燃えるからこそ、家中を暖めることができるはずだ」。これは単純な例でも、思索の第三段階をよく表している。言うまでもなく、推論の領域では、「○○である」と「○○ではない」だけではもはや言葉が足りない。第三段階に達した知識を表現するには、「もしも……」、「……だったら……」、「だから……」、「……だとすれば……」、などの言葉が必要になってくる。

2010年4月27日火曜日

「国家の品格」で見られる「わら人形」とカリカチュア (4)

以前、智子イズムという独特な思考法に触れてきた。ここでその特徴をもう一度挙げよう。

智子イズムを利用する人は:

① 細かい考慮を避ける。
② 素早く且つ大胆に自分と相手の個性や考え方を定義する。
③ ②の後には自分の主張をしまくる。

それから、細かいことに囚われないからこそ、智子イズムは便利な考え方であり、無知な人にとっても、一流の学者にとっても、否定できない魅力があるということについても触れてきた。

では、偽知識とステレオタイプという幻惑しか生み出さない智子イズムに、意図的な「わら人形論法」やカリカチュアを加えたら、議論はどうなるのだろうか?

それは、まるで火に油を注ぐような話だ。相手の主張はまるで理解しようとせず、わら人形だらけの、まったくでたらめな議論になるに違いない。自分と相手の個性や考え方を大胆に定義するだけではなく、自分を美しく見せながら相手をけなし、かつてなかった感情性も議論に伴ってくる。

しかも、漫画・映像・エッセイ集などにまとめられ、このような議論が一般に知られるようになれば、それはまるでウイルスのように伝染し、少数派、あるいは一人の著者の思想だったものは、「国家の幻惑」にまで拡大してしまうことが考えられる。

藤原氏の本には、正式な「わら人形論法」はないのかもしれない。氏が誰かの特定した意見に対して仕立てた反論を述べているのではなく、自分の意見を次々述べているだけだからである。だが、「国家の品格」を読んだ時、「えー、ちょっと待ってよ! そんな解釈はずるいんじゃない?」と思う箇所が非常に多かったので、私は氏の主張を「わら人形論法」と指摘することがある。

しかし、何と言っても、「国家の品格」で最も頻繁に見られるのは、欧米の文化や歴史についての「カリカチュア交じりの智子イズム」だ。藤原氏の主張はほとんどそうだと言っても過言ではない。次回は早速そんな例を見てみることにしよう。

カリカチュア (3)

「カリカチュア」とは、イタリア語では「誇張する」という意味になる。英語やフランス語でも「本当の様子よりも大げさに表す」という意味で使われ、人物画のジャンルでは、痩せている人をまるで骸骨のように描いたり、鼻が高い人の鼻を大根のように描いたりする画法を「カリカチュア」と言う。ポンペイの壁に当時の政治家と思われる人物の鼻やあごを妙に細長く描いた落書きがあることからして、カリカチュアには、かなり長い歴史がありそうだ。

似顔絵を旅行先で描いてもらうことはよくある話だ。「うん、うん。確かにこれはお前の眉毛だな。鼻もそっくりだ!」。こうして喜んでいる観光客の声がパリやニューヨークの街頭で毎日のようにあがっているだろう。だが、無邪気な遊びではなく、相手の欠点を誇大して描き、あるいは完全に現実離れした悪魔に見せたりする悪質なカリカチュアもある。

ブッシュ政権時のアメリカでは、大統領の顔をサルっぽく描く一こま漫画がやたら多く見られた。「ブッシュは頭が悪い」と批判することが作者の狙いだったに違いないが、それ以外に具体的な政策への批判などはまったく感じ取れない作品が多かった。同じように、クリントン大統領の在任中は、ひたすら好色家らしく描く漫画が流行っていた。

大衆の心を瞬時にふめるのは長たらしい経済論や歴史書ではない。大衆の感情に素早く訴え、怒りと愛国心を煽り立てる手段が必要だ。したがって、「カリカチュア」は政府や軍隊のプロパガンダとして悪用されることが多い。第二次世界大戦中も、全ての参戦国がカリカチュアの力を生かし、国民の戦意を高めた。

ナチドイツによって作られた映像や雑誌、ポスター、郵便切手などは特に見事(?)なものだった。当時のどんな宣伝ビラを見ても、金髪のドイツ兵が勇ましく立ち向かっている相手は、下品そうで色黒いロシア人だ。同じように、清らかな青い瞳をしたドイツ人女性に襲いかかっているのは鼻の曲がった鬼のような顔をしたユダヤ人である。ナチ政権は、何百年もの歴史をもつ、大衆の偏見を上手く利用していたのだ。

大日本帝国も、アメリカ合衆国も、敵国について巧みなカリカチュアをプロパガンダとして自国民に発していた。

日本の情報局企画である「写真週報」という雑誌は、「時の立札」という題で様々な標語を戦時中に紹介していた。昭和18年3月10日には、陸軍記念日の特集があり、「撃ちてし止まむ」という有名な標語が「写真週報」で発表された。この特集の一部として、子供用の塗り絵も二枚載っていた。






 
 一枚目の図下には、次のような言葉が書いてある。

コノオニハアカオニデス。イギリスノハタヲハラマキニシ、アメリカノハタヲフンドシニシテヰマス。ヨクカンガエテカラクレヨンデヌッテゴランナサイ。

二枚目の下には、こんな文がある。

コノテキヘイハ、ニンゲンノカタチヲシタアオオニデス。アメリカノハタト、イギリスノハタヲウデニマイテヰマス。オトウサンヤオカアサンニモヨクキイテカラ、クレヨンデヌッテゴランナサイ。

どちらの絵もシンプルな塗り絵で、決してナストの風刺漫画(ましてやドイツのプロパガンダ映画)ほどの洗練された芸術性はない。しかし、その目的を考えれば、なかなかよく出来ていると言えるだろう。幼い心に「鬼畜米英」の精神を植えつけるのには十分な道具で、「コノテキヘイハ、ニンゲンノカタチヲシタアオオニデス」というところなど、特に子供心への効果的な呼びかけだったのだろう。

アメリカのプロパガンダの中にも、敵兵の人間性を否定するようなものがあった。しかし、日本人を鬼や悪魔として描くよりも、人間以下の存在に例えることが多かったようだ。日本兵を原始人やサルのように描いたり、シラミに例えるものまであった。

わら人形論法と風刺漫画 (2)

わら人形論法:

「違います! 私はそんなことは言ってません。私が言いたかったのは、○○だけです」

おそらく誰もがこんなセリフを一度ぐらいはこぼしたことがあるだろう。夫婦喧嘩の最中、友達との言い合いの時、PTAや会社の会議中に……。一度どころか、性格や職業によっては、しょっちゅう言っている人もいるだろう。

これは、相手が自分の言葉を正確に聞き取れなかった時やその内容について勘違いした時のセリフではない。それだったら、「あれ? 違いますよ。7時からではなく、8時からですよ」とか「朝7時ではなく、19時ですよ」のような答え方で充分なはずだ。

同じように、真っ赤な嘘をつかれた時の反応でもない。それだったら、「私が言いたかったのは○○です」ではなく「私が言ったのは○○です」という言葉が出るだろう。

つまり、上のセリフを口にしたのは、自分の話した内容と異なったことを、相手はありのままのセリフのように引用し、元の発言ではなく、その仕立てた偽りの言葉に対して反論を述べたからである。

そんなことをされれば、誰だって怒る。しかし、なぜそんな議論の仕方をする人がいるのだろうか?

それは、相手の主張を大げさに解釈したり、元々なかった意味合いを付け加えたりすれば、反論することが楽になるからだ。無意識にやってしまえば、ただの誤りかもしれないが、わざと相手の言葉を都合の良いように歪めているのであれば、誤りどころか、それは卑怯な詭弁である。無意識な誤りにしろ、意図的な戦法にしろ、この議論法を論理学では「わら人形(ストローマン)論法」と呼んでいるのだ。仕立てた架空の意見を、燃やしやすいわら人形に例えているわけだ。

「えー、ちょっと待ってよ! そんなこと言ってないって!」
「訳わからないこと言わないでよ。私は○○したいだけだ」
「そんな大げさに言わないでくれる?」

わら人形論法で責められた時には、こんなセリフも反射的に出てくるだろう。

風刺漫画:

では、少し話題を変えて、風刺漫画について考えることにしよう。

新聞などで見られる一コマ漫画はルネサンス期イタリアや宗教改革時代のドイツに起源を持つが、19世紀の雑誌「パンチ」(イギリス)と「ハーパーズ ウイークリー」(アメリカ)においては特に洗練された芸術となり、大衆意識を操作する手段となった。

漫画に登場する政治家などの顔をグロテスクなほど大胆に描いたり、擬人化した動物や妖怪を登場させたり、文字を細かく書き込んだり、風刺漫画に使われる題材は一見して多種多様に見える。しかし、逆に言えば、型は決まっていて、描写の仕方や象徴的な要素はどの時代においても大して変わらないのかもしれない。

一つの例として、アメリカの代表的な風刺漫画家トマス・ナストの作品、「アメリカのガンジス川」、を見てみよう。




これは1875年、5月18日の「ハーパーズ ウイークリー」に掲載されたものだ。

当時、全国に広まりつつあった小学校の維持費について、熱烈な議論がなされていた。カトリック系の学校も、公立学校並みの助成金を国から受けるべきかどうか、というのが特に話題になっていたらしい。一般の公立学校でも聖書が授業中に読み上げられる時代ではあったので、宗教そのものが問題ではなかった。しかし、「合衆国の法律よりローマ法王の教令に忠実に従うだろう」と疑われていたカトリック教徒に対する偏見は強かった。

「アメリカのガンジス川」は、カトリック系学校への支援に反対していたナストが描いた漫画だ。その背景には、サンピエトロ大聖堂が美しく聳え立っている。だが、川を挟んで、半分破壊された建物があり、そこには「アメリカ合衆国・公立学校」と書かれている。その上、まるで救助を求めているかのように、学校から揚げられている国旗は逆さまになっている。

漫画の中景には、アイルランド系のカトリック教徒と思われる極悪な男たちが、教師と思われる女性を絞首台へ連れて行こうとしている様子が描かれている。また、男たちの一部は幼い子どもたちを崖から海岸へ下ろし、海から這い上がってくるワニの大群に食べさせようとしている。

前景には、小さい子どもたちを守ろうとしている一人の少年がいるが、今にもワニに襲われてしまいそうだ。少年の表情には、恐ろしさと共に、仲間を守り通す決意が描写され、少年の上着から聖書が半分出ている。このような緻密な工夫で、ナストの数多い傑作の中でも、この絵はとくに注目を集めたらしい。

しかし、この中で特に巧みなのは、ワニ大群の正体だろう。これらのワニをよく見てみると、祭服を着たカトリックの聖職者たちが四つん這いになっており、その細長い帽子がワニの口になっている。カトリック系学校の資金援助を反対するナストの天才的な宣伝工作である。

ところが、資金援助の賛成派には、プロテスタントの聖職者も実際に加わっていて、援助を反対する人の中にはカトリックの信者もいたはずだ。つまり、両方に騒がしい「過激派」がいたにもかかわらず、冷静な議論もなされていたのだ。

「ちょっとやりすぎだな。私も国のお金をカトリック学校の援助にすることに反対だけど、祭司たちをワニに例えるなんて……」

「アメリカのガンジス川」を「ハーパーズ ウイークリー」で見た多くの人々はそう思ったに違いない。そして、風刺漫画の危険性はそこにある。つまり、風刺漫画は、情熱的に何かを訴えることには向いていても、冷静な判断を必要とする問題解決の力にはならない。場合によっては、まったくのカリカチュアに成り下がることもある。

2010年4月26日月曜日

「国家の品格」について (1)

私は国際結婚がどうのこうのという話が嫌いだ。
私はアメリカ人。
妻は日本人。
それだけのことだ。

かといって、「結婚」について話し合うのは嫌ではない。男女関係、子育て、老後の準備……。どれも万国共通の話題であり、世代を超えて誰もが興味を持つことだ。

しかし、「国際」という二文字が頭につくだけで、私はうんざりしてしまう。その理由には、私が結婚早々に受けてしまったトラウマがある。「トラウマ」と呼ぶのは大げさかもしれないが、とにかく、それは妻の友人(ここでは智子と呼ぶことにしよう)によるものだ。

学生の頃から妻と仲が良かった智子は、異常なほど私達の「国際結婚」にこだわっていた。たまたま結婚した男女としてではなく、私達夫婦をどうしても「一人のアメリカ人」と「一人の日本人」として見ていたようだ。そのせいか、「日本人は○○だけど、アメリカ人は○○だよね……」というふうに、智子はどんな話題の会話をしていても、「アメリカ人と日本人の違い」に話を結び付けようとした。

「アメリカ人は皆フレンドリーだよね」
「やっぱり日本人は真面目だと思う?」
「アメリカ人は皆遊び上手なんでしょう?」
「だけど、日本人はよく働くと思わない?」

どうやら、智子にとっては、無愛想なアメリカ人(目の前にいたのに……)はありえないもので、怠け者の日本人も考えられなかったようだ。

「いやー、同じアメリカ人でも、いろんな人がいるからね」

最初のうち、私はこうして智子の主張に抗議を試みたが、聞き入れてもらえないことがわかると、彼女を説得しようとすることを早く諦めた覚えがある。

新婚のあの時代から何年も経ってしまい、妻でさえ智子との付き合いがほとんど年賀状だけになってしまったようだ。だが、「アメリカ人は○○だ。日本人は○○だ」のような発言をする人のことを、我が家では未だに「智子」と呼んでいる。まあ、正直に言うと、私がそう呼んでいるだけかもしれない。とにかく「智子」という固有名詞は、ある独特の考え方の代名詞に化したのである。ここではその考え方を「智子イズム」と名づけよう。

さて、前置きが長くなったが、これより本題に入る。

私が藤原正彦氏の「国家の品格」をはじめて手にしたのは、同書が世に出てから数年経った後のことだった。詳しい内容についてはわからなくても、題名からして面白そうだと思い、「いつか読もう」と前から意識はしていた。地元の図書館では貸し出し中で借りられない時期が長く続いたことも印象に残り、知り合いに勧められることも何度かあった。そういうこともあり、「国家の品格」をやっと手にした時、私は期待を膨らましながら表紙をめくり、最初のページを読んでみた。

藤原氏の前書によると、日本では、義理や貸し借りなどが社会人の常識であり、以心伝心やあうんの呼吸が日本人同士のコミュニケーションを円滑にしている。著者の言うには、これはすべて独特な国民性によることであり、日本人ならではの素晴らしい話だ。しかし、アメリカはどうかと言うと、すべてが論理の応酬で決まってしまい、アメリカ人は前述のような情緒や常識に乏しい。言うまでもなく、これは望ましくない事態である。

「何だこれ? 智子じゃないか?」

藤原氏の前書を読んでみた私の第一印象はそれだった。読み続ければ、こんな内容がどんどん出てきそうな気もして、いきなりがっかりした。

ここで一旦話を戻して、智子イズムについて詳しく考えよう。

まず、はっきりさせておきたいのは、私が智子イズムと呼んでいるのは、経験の浅さや知識の足りなさから物事の真相を勘違いしてしまうことではない。こうした「情報不足による判断ミス」と違い、智子イズムは具体的な知識の有無とは関係ない。言い換えれば、智子イズムは、思考の内容に欠点があるというより、思考法そのものがおかしい。

例えば、私が智子にいくら抗議をしても、彼女はその話を「ふーん」と聞き流し、次に会う時はいつものような発言を繰り返していた。彼女には(せめて空港嫌いな私よりは)海外旅行の経験が何度もあり、人並みの教育も受けていた。だが、それにもかかわらず、彼女はあえて、「アメリカ人は皆○○だ、日本人は皆○○だ」という非常に大胆な考え方しかしなかった。つまり、智子は無知だったのではなく、持っていた知識の処分が悪かった。こういう意味で智子イズムは思考法の問題である。

智子イズムの代表的な特徴は、自分と相手の個性や考え方を素早く、且つ大胆に定義することだ。そうすることによって、自分の意見を好きなだけ主張できるようになるので、智子イズムはとても便利な考え方である。そして、便利だからこそ、経験や知識にかなりの薀蓄があり、他の場面では実に巧みな思考を用いる人でも、時と場合によって、智子イズムをあえて使うことがある。

もちろん、この便の良さを得るには、様々な詳細を無視し、深いニュアンスのある理解を犠牲にしなければならない。だが、智子イズムは単純な考え方だからこそ、不都合な事実に焦点を当てず、自分の主張の正しさを裏付ける情報にだけピントを合わせることができる。一流の知識人だろうと、弁論の初心者だろうと、これは否定できない魅力なのだ。

しかし、フレンドリーではないアメリカ人が山ほどいることや、遊び上手な日本人も沢山いることが示すように、智子イズムが導き出す結論には、乏しいステレオタイプに過ぎないものが圧倒的に多い。「アメリカ人は皆フレンドリーだ」というのは、何の役にも立たない偽知識であり、智子イズムはこうした幻惑ばかりを生み出す。

とはいえ、智子の例は大した話ではない。「またそんなことを言ってるのか?」と私はあきれていたが、彼女はそれでも立派な人だった。

ところが、智子イズムという思考法は、これより大きな問題を引き起こすこともありえるのだろうか? 「国家の品格」を読みながら「ありえる!」と強く思い始めた私は、先ずそのことに焦点を当てたいと思う。

だが、それだけではない。「国家の品格」を読めば読むほど私は驚いた。著者は頭が良く、教養もあり、立派な目標を持って執筆したはずではあるが、殆どどのページを見ても、欧米の文化についての不理解が目立ち、氏の歴史観もかなり疑わしく思えた。藤原氏の最終的な結論については、「こんな考え方はむしろ危険ではないか」とまで思うように至ったのである。

誰にだって無知な部分や先入観がある。智子の世間話程度だったら見てみぬ振りをするのは、かえって良い対処法かもしれない。だが、「国家の品格」の場合は違う。数多くの人が読んだだけあって、反論もなくてはならない。