2010年10月6日水曜日

「美しい情緒」は世の中を救えるのか? (39)

自然に対する感受性。
もののあわれ。
懐かしさ。
家族愛。
郷土愛。
祖国愛……。

藤原氏が挙げる「美しい情緒」は、確かにどれも賞賛すべき感情だ。こうした情緒は、人間一人ひとりの人生を豊かにする効果があることも否定できない。愛する人に囲まれながら、大自然の美を楽しんで、一日一日を大切にする人こそ、真の幸せを手に入れたと言えるだろう。

だが、こうした情緒は「世の中を救える」という考え方は、途轍もなく大げさだと私は思う。

その理由を三つ挙げよう。



まず、どの「美しい情緒」も、太古の昔から世界の各国で存在するものであるにもかかわらず、「自然に対する感受性」によって、悲惨な戦争が避けられたケースは一つもない。「もののあわれ」に対する敏感さによって、飢饉や内戦で苦しむ発展途上国の治安が確立されたり、飲料水が消毒されたりした話も聞いたことがない。つまり、「美しい情緒」は、個人個人の人生を精神的なレベルで豊かにする力はあっても、命そのものを支えたり、生活を保護したりするような力はない。

もちろん、慈善的な行動に直接繋がるような「美しい情緒」もある。このような感情ならば、「世の中を救える」とまでいかなくても「世の中を改善できる」ことは、私も認める。しかし、人間社会に役立つような「美しい情緒」は、どちらかと言えば、藤原氏が説くような「美的情緒」ではなく、キリスト教や仏教で説かれている「慈愛」や「慈悲」である気がする。



では、家族愛・郷土愛・祖国愛などはどうだろう? 自然美の観賞などではなく、しっかりと人間関係に基づくこれらの情緒なら、慈愛や慈悲のように、ポジティブな影響を社会に与えることは出来るのだろうか?

これは多少認められるとしても、「美しい情緒」が世の中を救えない二つ目の理由をここで述べなければならない。つまり、いくら「美しい」情緒であるとはいえ、それは悪用される可能性もある。

藤原氏は、悪用され得る論理を批判しながらも、感情が悪用される可能性について一切触れないのは、私にとっては不思議でならない。どんなに悪質な議論でも、理屈をこねれば正当化することは確かに出来るかもしれない。だが、感情や情緒についても同じことが言える。テレビのコマーシャルから「振り込め詐欺」まで、一般の政治家から過激派の扇動者まで……、下心をもって大衆の情緒に直接訴える人・団体・会社は、社会の至るところで絶えず働いている。しかも、「美しい情緒」こそが、醜い事実を誤魔化すのに最適であると、それぞれのプロパガンダを製作する人・団体・会社は充分理解している。



最後に、「美しい情緒」にまつわる最も厄介な問題に触れよう。

つまり、いくら純白な情緒を抱きながらも、非道そのものの悪巧みに、人は参加することが出来るのだ。その極端な例として、戦争というものを挙げられるだろう。祖国愛、友情、自己犠牲の精神、正義感、忠誠心、惻隠、勇気……。戦争こそが「美しい情緒」を生み出すものであると言っても過言ではない。どの時代においてもそうであり、どの交戦国の勇士はこうした「美しい情緒」に日々支えられてきた。

しかし、言うまでもなく、すべての戦争は正しいわけではない。つまり、「美しい情緒」による「個人の美徳」と、単なる野望に基づく「国家の悪徳」とは、見事に共存することが出来るのだ。

いくら「美しい」情緒でも、その考え方や応用法を一歩でも間違えば、「世の中を救う」どころか、誤った論理以上の悪影響を世の中に与えてしまうことになるだろう。

虫の声 (38)

では、人間の感情は万国共通であり、日の下には新しいものはないのに、なぜ藤原氏は「もののあわれ」の英訳にそこまでこだわったり、欧米人は虫の声を楽しめないほど大自然の美しさに鈍感であると主張するのか? 

それは、「国家の品格」を通して、日本の洗練された美学や珍しい情緒こそが「世の中を救える」と藤原氏は主張したいからだ。となると、「日本にしかない情緒」、「日本人にしかない敏感さ」がなければならないわけだ。

日本の芸術は素晴らしい。日本の文学は繊細で巧みな表現に富んでいる。それは誰もが認めることだ。だが、藤原氏の主張を受け入れるために、海外の芸術、海外の文学、海外の人々の根本的な人間性についてでさえ、あまりにも歪んだカリカチュアを飲み込まなければならない。

例えば、藤原氏の考え方では、日本の詩人は大衆の心をありのままに上手く表現しているが、欧米の詩人は、一般の国民と掛け離れた存在であり、珍しい感性を持っていることになる。そんなことはありえない。シェイクスピア、 ディキンソン、 フロスト、 ホイットマン、 テニスン、 エリオット……。皆大衆に理解され、尊敬され、愛されているからこそ、普遍的な名声を得たのだ。

藤原氏の知人が、大自然に刺激され、その刺激がインスピレーションとなって、数学の難問を解けたというエピソードも、「国家の品格」で語られている。しかし、「自分の信仰によってインスピレーションを受けて科学の新たな発明が出来た」というニュートンの主張を、藤原氏は「根拠のない先入観」と馬鹿にしている。「藤原氏の友人は『美しい情緒』によって理解力が高められたが、ニュートンはただの迷信に騙されていた」という差別的な考え方は、あまりにも矛盾していて、受け入れられることにも、真面目に考慮されることにも値しないだろう。