2010年7月26日月曜日

「日の下には新しいものは無い」 (34)

旧約聖書には、こういう言葉がある。
 
世は去り、世はきたる。
しかし、地は永遠に変わらない。
日はいで、日は没し、
その出たところに急ぎ行く。
風は南に吹き、また転じて、北に向かい、
めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。
先にあったことは、また後にもある。
先になされたことは、また後にもなされる。
日の下には新しいものはない。

「何となく悲観的だな」と、この箇所を好まない人はいるようだが、私は昔から気に入っている。非常に現実的な思想だからだ。

しかも、「天(あめ)が下のすべての事には季節があり、すべての業には時がある」という有名な言葉も、この後に続く。「悲しむに時があり、踊るに時がある」、「愛するに時があり、憎むに時がある」、「戦うに時があり、和らぐに時がある」などがその一部だ。つまり、「日の下には新しいものはない」という考え方は、悲観的どころか、人間のなすべき業には目的も意義もあり、大いに励むべきであることを訴えている。ただ、「これは新しい! これは珍しい!」と考えることは、高慢な態度と傲慢な行いに繋がるから危険だ。

文学評論家の中には、小説の筋立ては非常に限られていると主張する人がいて、その筋立ては合計三パターン、七パターン、三十六パターン……、といった具合にいろいろな考え方がある。「人間vs人間」、「人間vs自分」、「人間vs自然」、「人間vs神」などという大雑把な分野に、どの物語も当てはまると主張する人もいれば、「愛、裏切り、追求、脱出、和解……」などと、テーマ別に詳しく分類する人もいる。

ある意味、こんな評論はまったく意味のない考え方だ。すべての音楽だって、「ド、レ、ミ、ファ、ソ……」という至って限られた要素で出来てはいるが、その組み合わせは実に無限である。「物語」についても同じことが言えるだろう。

ところが、小説の中だろうと、現実の世の中だろうと、人の経験し得る事は、どの世代においても、どの国においても、基本的に共通していることを理解することは大切である。そういう意味では、評論家たちの思想も「日の下には新しいものはない」という考え方に近いかもしれない。

では、ここで私が付け加えたいのは、経験の種類が限られているだけではなく、その経験を通して呼び起こされる「感情」も大して変わらないことだ。

ある人種の抱く感情には、他の人種の抱く感情と「根本的な違いがある」と主張することは、「日の下には新しいものはない」原則を否定することになり、傲慢どころか、何となく馬鹿げている気までする。まるで、イタリア人の体によるスパゲッティの消化と、中国人の体による酢豚の消化に大きな違いがあると言っているようだ。

つまり、どこの国の人も、食事をしたり、病気になったり、恋人を愛したり、友人の死を悲しんだり、いずれは自分も死ぬ。そして、どこの文化にも、これらのことに対する習慣が古代より築き上げられている。食事の作法、交際と結婚の決まり、葬式のしきたりなどがその代表的な例である。だが、どの民族も、食べる時の嬉しさや満腹感は変わらない。病気の苦しみも変わらない。愛の喜びと不安も変わらなければ、死別の辛さも変わらないだろう。

「もののあわれ」などは日本人ならではの珍しい情緒であり、「このような情緒こそは世の中が必要としているものだ」と、藤原氏は『国家の品格』で主張している。

だが、「もののあわれ」などは、本当に氏の言うほど珍しいものなのだろうか? もし万国共通の情緒であるなら、そんなものは本当に世界を救えるのだろうか?

2010年7月17日土曜日

民主主義 vs ファシズム (33)

四人とも任期が長く、相当な権力の持ち主だったので、アドルフ・ヒトラー、東條英機、ルーズベルト大統領、チャーチル首相を、藤原氏は同じように扱っている。違いがあっても、それは「形式的なこと」であり、独裁は独裁であるそうだ。

これは、一つ・二つの特徴だけにこだわり、それ以外のことをすべて無視する場合、いかに愚かな判断が下されてしまうかがよくわかる例だ。

「みんな果物で、しかも甘酸っぱいから、パインアップル、ブルーベリー、スターフルーツ、ミカンには、違いがあっても、それは形式的なことだ」と言っているような話だ。気候条件と栽培法、食べ方・料理法、細かい栄養素、値段、大きさ、色……、これを全部無視すれば、それは言えることかもしれないが、そうすれば、もはや意味のない発言になってしまうだろう。

同じように、上記の四人を一緒にするには、無視しなければならない事柄が実に多い。政府・政権そのものの成り立ちの違い、権力を支える組織と制度の違い、指導者の権力の制限の違い、指導者の目標や思想の違い、指導者に対する国民の気持ちと考え方の違い、国の憲法・法制度・経済体制の違い、権力分立の有無の違い……。「形式的な違いしかない」と主張するには、このような詳細を省略しなければならなく、それは実に無責任な発言であるとしか言いようがない。

民主主義とファシズムについては、藤原氏はこのような発言もしている:


「戦後、連合国は第二次世界大戦を『民主主義対ファシズムの戦争』などと宣伝しましたが、それは単なる自己正当化であり、実際は民主主義国家対民主主義国家の戦争でした。どの国にも煽動する指導者がいて、熱狂する国民がいました」

「国家の品格」第三章より


正直に言うと、ファシズムと民主主義の違いを否定しようとする藤原氏の考え方は、真面目に答えるにも値しないと思う。

だが、ナチスなどに立ち向かうことは、戦後からどころか、戦前から「ファシズムと民主主義の対決」として考えられていたことを証明するチャーチル首相の演説をあげよう。

1938年に、アメリカとイギリスの両国で放送された演説の一部だ。演説のテーマは、独裁と戦うために、「アメリカとイギリスが為すべき備え」である:

「武力を高めるだけではなく、我々は思想面においても敵に答えられる力を同時に身に着けなければならない。『ナチズム対民主主義』のように、『哲学の争いにまで巻き込まれてはならない』と主張する者はいるようだが、そんな争いなら、既に始まっているだろう。だが、精神面・倫理面における戦いにこそ、我々自由国は大きな力を発揮できるに違いない」

独立と生存のための日米戦争? (32)

藤原氏のように、20世紀の悲劇を「武士道の衰退」のせいにするのは大きな間違いだと私は思う。だが、いつかそれについて触れるとしても、ここで注目したいのは、「日米戦争は独立と生存のためだった」という藤原氏の主張だ。

藤原氏は、真珠湾攻撃後のルーズベルト大統領の演説についてこう述べている:

「ルーズベルト大統領だけが『恥ずべき』とか『破廉恥』などという最大限の形容を用いて憤激して見せたのは、モンロー主義による厭戦気分に浸るアメリカ国民向けでした。『アメリカの若者の血を一滴たりとも海外で流させない』という大統領選での公約を破り、欧州戦線に参戦するための煽動だったのです。計算どおり、国民は憤激し、熱狂し、大戦に参加することが出来たのです」   「国家の品格」 第三章より


またまたルーズベルト大統領についての陰謀論だが、「アメリカと中国の関係」や「真珠湾攻撃までの流れ」を考えれば、これはいかに愚鈍な考え方かはわかる。

確かに、ルーズベルトはヨーロッパの大戦に参戦したかった。だが、そう思っていた政治家や一般人は他にも大勢いた。アメリカとイギリスの絆は深かく、ヒトラーの大陸での残虐な侵略を見てみぬ振りは出来なかった。ヨーロッパへの参戦は当時のアメリカ人の賞賛すべき決心だったとも言えるだろう。

日本との開戦について、ルーズベルト大統領は煽動する必要なんて無かっただろう。日露戦争の時代から多くのアメリカ人が感じていた日本に対する好意は、日中戦争のニュースによって徐々に消滅してしまい、真珠湾攻撃を通して、それは完全に底をついてしまったわけだ。大統領の演説は大衆を煽動するための策略どころか、全国民が感じていたことを表現しただけだった。

もう一つ注意したいのは、日本に対する尊敬が徐々に軽蔑と不信に変わってしまったのは、元々あったアジア人に対する偏見によるものではなかったことだ。一部のアメリカ人には、日本人に対する偏見は確かにあり、移民問題からそれはわかる。だが、一部の人間は醜い差別に心を奪われていたとしても、その偏見が真珠湾攻撃後に爆発的に広まった原因の一つは、中国に対する日本の軍事行為をアメリカ人は何年も見てきていたことだ。

日米戦争は類稀なる悲劇だった。犠牲者となった各国の兵隊を考えても悲劇だった。各々の戦地で紛争に巻き込まれて犠牲者になった民間人のおびただしい人数を考えても悲劇だった。しかし、何と言っても、「紛争に至るまでの数十年間にわたる過程のどこかで、戦争を予防することができたはずだ」と思えば、それは特に悲劇に思えるだろう。

藤原氏のように、日米戦争は避けられなかった「独立と生存のための戦いだった」と主張することは、数多くの歴史事実を無視する無責任なカリカチュアであり、(日本を含めて)各参戦国の犠牲者に対する侮辱でもあるような気がする。

2010年7月9日金曜日

真珠湾攻撃までの流れ 2 (31)

⑥ 1940年5月に、ヒトラーはオランダ・ベルギー・フランスを侵略した。この時より、アメリカにおいてはヒトラーの著しい戦果に対して、新たな不安が生まれた。イギリスまで侵略されたら、アメリカの東海岸はヒトラーの攻撃にさらされるからだ。

⑦ 日本は逆にドイツの戦果によって大いに得とした。なぜなら、オランダとフランスはドイツに占領されてしまったために、日本海軍の『南進論』の対象だったそれぞれの植民地を守ることが出来なくなったからだ。マレーシアにおけるイギリスの戦力もかなり制限された。

 当時の日本の首相は近衛文麿だったが、実際に権力を握るのは陸軍大臣の東條英機に変わりつつあった。この時の東條はフランス領インドシナに圧力をかけ、その領土から中国の南部への新たな日本軍の進出を実行した。

⑧ 1940年8月、東條の大胆な進駐への対策として、ルーズベルト大統領はとうとう飛行機の燃料や金属くずの通商禁止を発令した。ハル議員などは、「やっと禁止令が出たのか」と思ったに違いない。

⑨ 通商禁止に対する報復手段という意味もあり、1940年9月27日に、日本は以前から実現させようとしていた「日独伊三国軍事同盟」に加入する。

 1940年末には、日本の歩兵部隊などの訓練に、熱帯地方での戦闘演習が本格的に導入され、マレーシアやフィリピンに対する偵察飛行が行われ始めた。真珠湾攻撃の作戦もこの時期に完成され、陸軍省は、フィリピンなどで使える紙幣を印刷し始めた。

⑩ 1941年4月、「日ソ中立条約」が結ばれ、日本は、いわゆる「北進論」に基づく作戦を諦めた。ノモンハン事件の敗北以後の現実的な考え方だったとも言えるが、ソビエト連邦より唯一恐ろしい相手はアメリカ合衆国だったということも言えるので、「南進論」に対する勢力が増したことは残念な結果の一つである。

⑪ 1941年6月、ドイツはとうとうロシアの国土にも侵入した。日本はドイツと同盟を結んでいたので、日ソ中立条約はこれで廃止されるのではないかと、日本国内では大きな不安は感じられた。だが、なおさら南方の資源を確保するしかないと主張する軍人も多かった。

⑫ 1941年7月、日本はフランス領インドシナの全土を占領した。そこで新しく出来た基地からは、マレーシア、オランダ領東インド、フィリピンへの侵攻も容易になった。

⑬ 1941年8月、東南アジアにおける日本の新たな侵略行為に対して、ルーズベルト大統領は在米の日本資産を凍結し、対日石油輸出禁止を命じた。

⑭ アメリカの石油の輸入無しでは、18ヵ月間しか現状の武力を維持できないことは、日本の大本営の計算によって明らかだった。「その間にアメリカの海軍に止めを刺し、南方の資源を確保できる」というのは大きな賭けに過ぎなかったが、後の大本営の戦略はすべて、この賭けを大前提としていた。

⑮ 東條英機は10月から日本の首相となり、12月8日に真珠湾攻撃が行われた。同時にフィリピンにある米空軍の基地に対する攻撃も実行され、太平洋戦争が開幕を迎えた。

2010年7月8日木曜日

真珠湾攻撃までの流れ 1 (30)

では、アメリカと中国の「恋愛関係」を頭に入れながら、真珠湾攻撃までの流れを見てみよう。大雑把ではあるが、次の15点にまとめてみた:


① 20世紀に入ると、軍隊・産業・経済の更なる近代化のため、日本は国内で入手できない大量のゴム、錫(すず)、ボーキサイト、鉄、石油などがどうしても必要だった。これらの資源の貿易は、国の大きな財政負担となっていた。

② 明治維新から日本の人口が倍増したこともあり、「帝国の膨張」こそが、有力な経済政策として取り上げられるようになった。

 例えば、1907年という早い時期から、海軍参謀の一部が南方への進出を考え始めた。具体的には、中国の南部地方やマレーシア、フランス領インドシナ(現代のベトナム・カンボジア・ラオス)、オランダ領東インド(現代のインドネシア)の占領を本格的に考慮していた。しかし、これを実行した場合、アメリカが抵抗してくることも予想されていたので、フィリピンやグアムを攻撃することによって米軍艦隊の出港を誘き寄せ、基地から遠く離れた海上で待ち伏せをする戦闘計画も練られた。

 あるいは、海軍ではなく、陸軍参謀はどう考えていたかというと、「北進し、満州や東シベリアを占領する」という作戦が有力だった。当然ながら、この場合には、中国やロシアの抵抗が予想されていた。

③ 1931年9月18日、柳条湖事件で満州事変が始まった。

 南満州鉄道は、日露戦争後に設立され、特殊会社として日本に運営されていた。柳条湖近くの線路で起きた爆発をきっかけに、日本の「関東軍」が進出し、五ヶ月間だけで中華民国東北地方であった満州全土を完全に占領した。関東軍は線路の爆撃が中国軍による破壊工作だったと主張したが、実際には関東軍の自作自演の策略であった。

 翌年から、日本はこの地方において、「満州国」を建国し、太平洋戦争終戦まで関東軍の支配下においていた。

 言うまでもなく、満州国建国にあたり、国境の問題が生じ、その紛争のもっとも激しい例はノモンハン事件である。1939年5月に勃発し、9000人近くの日本兵が犠牲者となった。この戦いは、「国家の品格」では、日中戦争の一部として取り上げられているようだが、ノモンハン事件は、日本vs中国ではなく、あくまでも、日本(あるいは満州国)vsソビエト連邦(あるいはモンゴル人民共和国)の戦いだったことを忘れてはならないだろう。

④ 1937年、中国軍が駐在していた盧溝橋付近で、日本軍の戦闘演習が行われた。この演習に対する混乱がきっかけとなり、最初は控えめだった両軍による撃ち合いが本格的な戦闘にまで発展してしまった。この「盧溝橋事件」が日中戦争の始まりだとされている。

 ハル議員の記事を通して、この事件はアメリカでも大きなニュースとして取り上げられ、日米関係に大変な影響を及ぼしたことがわかる。だが、もっと重大な影響を与えてしまったのは、盧溝橋より更に南方で繰り広げられた戦闘である。つまり、中国軍を率いる蔣介石が上海付近で反撃を試みると、何ヶ月にも及ぶ新たな戦闘が起こり、徐々に勢力を増した日本軍は少しずつ中国軍を内陸へと追い詰めた。冬には、戦線は首都の南京まで来ていた。

 様々な説があるので、12月13日から始まった南京虐殺がどの程度の規模だったかについては、ここでは論じない。とにかく注意しなければならないのは、このニュースがまたアメリカに伝わると、日本の軍隊や政府に対するアメリカの世論は大きな転機を迎えてしまったことだ。

⑤ 1939年9月1日、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻で、ヨーロッパにおける第二次世界大戦が始まった。

2010年7月1日木曜日

アメリカと中国の「恋愛関係」 2 (29)

前回、中国YMCA会長のデヴィッド・ユイがワシントンDCに行って、日本軍による満州占領の不義をアメリカ政府に直接訴えたことにふれた。だが、こうした政治家への呼びかけより、日米関係における大きな影響を及ぼしたのは、映画『大地』だったのだろう。

お気づきの読者もいるかもしれないが、23,000,000人ものアメリカ人が『大地』を観に行った1937年は、盧溝橋事件により日中戦争が本格化した年でもある。つまり、日本国内で、日中戦争がどう正当化されていたとしても、中国の農民を気の毒に思っていたアメリカ人にとっては、日中戦争に関するニュースは、「弱いものいじめ」や「酷い侵略戦争」の話にしか聞こえなかった。

一つの例を見てみよう。

ウィスコンシン州・ブレア市は、本当は「市」と呼ぶに至らないかもしれない。今日でも、凡そ1,200人しか住んでいない小さな田舎町であるが、当時(1937年)の人口は600人だけだった。週に一度だけ発行されていた新聞「ブレア・プレス」を読んでみると、住民の暮らしは相当のんびりしたものだったことがわかる。何しろ、6枚ぐらいしかない新聞紙の表紙を毎回彩るのは、日曜日の朝に行われた礼拝行事の報告や「週末、ジョンソン家は、トムソン家へ遊びに行きました」、「スミス家のおばあちゃんは、今週86歳になります」のような記事ばかりだ。広告と言えば、卵を買い取ってくれる農協支店と中古家具屋のものぐらいだ。

だが、こんなに小さな田舎町とはいえ、国際問題については関心が高かったようだ。「ブレア・プレス」の少ない連載記事の一つは、ウィスコンシン州代表の国会議員、マーリン・ハルの随筆である。

前置きが長くなったところで、ハル議員の言葉を引用しよう。日付は、盧溝橋事件から一ヶ月後の1937年8月14日:



『わが国における外務関係者及び知識人は、「戦争」の定義にこだわり過ぎだ。

合衆国議会において、今期早々に、中立法が新しく制定された。これは我々が海外の紛争に巻き込まれないための法律であり、この法の下では、戦争中の国々に対して、弾丸やその他の軍需品の通商禁止発令が可能となった。実際、この法の制定後、スペインへの軍需品通商は、大統領の発令によって早速禁止された。

一方、近頃、大日本帝国はまたまた中国の領土を占領し、何千人もの民間人(女性や子供も含め)が、日本の大砲と爆撃機の犠牲者になっている。どう考えてもこれは侵略戦争である。だが、日本に対しては、通商禁止令は発せられないまま、議会では、そんな発令についての考慮すら本格的に為されていない。しかも、一人の議員によると、法的に「戦争」として認識できるかどうかという疑問があるため、日中の紛争は中立法の対象外である。

スペインの町が破壊され、スペインの民間人が爆弾の犠牲者になれば、それは「戦争」である。だが、中国で同じことが起きても、それは「戦争」ではない……。法的にどんな違いがあっても、我々一般人から見れば、大西洋の向こうで起きる虐殺も、太平洋の向こうで起きる虐殺も、どちらもやっぱり「戦争」に見える』



残念ながら、次のような陰謀論を未だに耳にすることがあるので、ここでは少しだけふれてみよう:

『ルーズベルト大統領は、既に起きていたヨーロッパの大戦に、アメリカ軍を早く参戦させたかった。だが、一般のアメリカ人は海外で戦争することに反対だったので、ルーズベルトは、「金属くずや石油の通商禁止」というはかりごとを用いて、日本が先に攻撃するように仕掛けた。つまり、日本を怒らせれば、日本はアメリカを攻撃する。そして、その攻撃に憤激するアメリカの大衆は反撃したくなる。日本はドイツと同盟を結んでいたので、それはヨーロッパでの参戦にも繋がる。そんなはかりごとを利用したルーズベルトは、卑怯な策士だったのだ!』

上記のハル議員の記事を読めば、ルーズベルト大統領が金属くずや石油の通商禁止令を実際に発する3年も前から、日本への通商禁止は国会議員の間で話題になっていたことがわかる。しかも、「ブレア・プレス」にまでそんな議論が詳しく報告されるほどだったので、養鶏所の経営者やその他の農家、いかにも素朴な一般人の間でも、「通商禁止」という手段が議論されていたに違いない。ルーズベルトの通商禁止令は「大統領の策略」どころか、それは、一般人の中国への思いから自然にわきあがる発想であった。

とにかく、ハル議員の新聞連載記事には、数週間にわたり、日中戦争の話題が取り上げられた。10月21日、彼は金属くずや石油の通称禁止を具体的に挙げている:


『中国での戦力を維持するために、日本国民の装身具まで徴発され、その金属が軍需品の生産に使われている。その上、「贅沢品」の輸入は禁止されているようだ。しかも、その「贅沢品」の中には、我々にしてみれば、贅沢どころか、いたって日常的な品物が多い。

もちろん、日本の政府が禁止している輸入物の中には、アメリカからの綿、石油、金属くず、軍需品生産に必要な機械類などは入っていないのだ。つまり、日本の政府は自国民の生活水準を犠牲にするまで、自分たちの戦争への欲望を満たしてしまうつもりだ。

言い換えれば、日本の将軍たちは、自国の貧困問題に取り組むこと、戦死した兵隊の遺族を援助することなどより、空襲によって中国の女性や子供にさらなる損害を加えることを優先している。

戦争の悲惨さを常に味わってしまうのは、投機家ではなく、罪の無い大衆だ』



戦争の責任は、日本の政府と軍隊だけではなく、アメリカを含め、日本との貿易を通して暴利をむさぼっている国家や企業家たちにもある。この訴えはハル議員の記事に多く見られる。平和を取り戻すために、ハルは「経済制裁」のような政策を提案していた。それは、なかなか先進的な考え方ではあったが、残念ながら、現実にならないうちに、太平洋戦争が始まってしまったのだ。