2010年7月8日木曜日

真珠湾攻撃までの流れ 1 (30)

では、アメリカと中国の「恋愛関係」を頭に入れながら、真珠湾攻撃までの流れを見てみよう。大雑把ではあるが、次の15点にまとめてみた:


① 20世紀に入ると、軍隊・産業・経済の更なる近代化のため、日本は国内で入手できない大量のゴム、錫(すず)、ボーキサイト、鉄、石油などがどうしても必要だった。これらの資源の貿易は、国の大きな財政負担となっていた。

② 明治維新から日本の人口が倍増したこともあり、「帝国の膨張」こそが、有力な経済政策として取り上げられるようになった。

 例えば、1907年という早い時期から、海軍参謀の一部が南方への進出を考え始めた。具体的には、中国の南部地方やマレーシア、フランス領インドシナ(現代のベトナム・カンボジア・ラオス)、オランダ領東インド(現代のインドネシア)の占領を本格的に考慮していた。しかし、これを実行した場合、アメリカが抵抗してくることも予想されていたので、フィリピンやグアムを攻撃することによって米軍艦隊の出港を誘き寄せ、基地から遠く離れた海上で待ち伏せをする戦闘計画も練られた。

 あるいは、海軍ではなく、陸軍参謀はどう考えていたかというと、「北進し、満州や東シベリアを占領する」という作戦が有力だった。当然ながら、この場合には、中国やロシアの抵抗が予想されていた。

③ 1931年9月18日、柳条湖事件で満州事変が始まった。

 南満州鉄道は、日露戦争後に設立され、特殊会社として日本に運営されていた。柳条湖近くの線路で起きた爆発をきっかけに、日本の「関東軍」が進出し、五ヶ月間だけで中華民国東北地方であった満州全土を完全に占領した。関東軍は線路の爆撃が中国軍による破壊工作だったと主張したが、実際には関東軍の自作自演の策略であった。

 翌年から、日本はこの地方において、「満州国」を建国し、太平洋戦争終戦まで関東軍の支配下においていた。

 言うまでもなく、満州国建国にあたり、国境の問題が生じ、その紛争のもっとも激しい例はノモンハン事件である。1939年5月に勃発し、9000人近くの日本兵が犠牲者となった。この戦いは、「国家の品格」では、日中戦争の一部として取り上げられているようだが、ノモンハン事件は、日本vs中国ではなく、あくまでも、日本(あるいは満州国)vsソビエト連邦(あるいはモンゴル人民共和国)の戦いだったことを忘れてはならないだろう。

④ 1937年、中国軍が駐在していた盧溝橋付近で、日本軍の戦闘演習が行われた。この演習に対する混乱がきっかけとなり、最初は控えめだった両軍による撃ち合いが本格的な戦闘にまで発展してしまった。この「盧溝橋事件」が日中戦争の始まりだとされている。

 ハル議員の記事を通して、この事件はアメリカでも大きなニュースとして取り上げられ、日米関係に大変な影響を及ぼしたことがわかる。だが、もっと重大な影響を与えてしまったのは、盧溝橋より更に南方で繰り広げられた戦闘である。つまり、中国軍を率いる蔣介石が上海付近で反撃を試みると、何ヶ月にも及ぶ新たな戦闘が起こり、徐々に勢力を増した日本軍は少しずつ中国軍を内陸へと追い詰めた。冬には、戦線は首都の南京まで来ていた。

 様々な説があるので、12月13日から始まった南京虐殺がどの程度の規模だったかについては、ここでは論じない。とにかく注意しなければならないのは、このニュースがまたアメリカに伝わると、日本の軍隊や政府に対するアメリカの世論は大きな転機を迎えてしまったことだ。

⑤ 1939年9月1日、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻で、ヨーロッパにおける第二次世界大戦が始まった。

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