2010年7月17日土曜日

民主主義 vs ファシズム (33)

四人とも任期が長く、相当な権力の持ち主だったので、アドルフ・ヒトラー、東條英機、ルーズベルト大統領、チャーチル首相を、藤原氏は同じように扱っている。違いがあっても、それは「形式的なこと」であり、独裁は独裁であるそうだ。

これは、一つ・二つの特徴だけにこだわり、それ以外のことをすべて無視する場合、いかに愚かな判断が下されてしまうかがよくわかる例だ。

「みんな果物で、しかも甘酸っぱいから、パインアップル、ブルーベリー、スターフルーツ、ミカンには、違いがあっても、それは形式的なことだ」と言っているような話だ。気候条件と栽培法、食べ方・料理法、細かい栄養素、値段、大きさ、色……、これを全部無視すれば、それは言えることかもしれないが、そうすれば、もはや意味のない発言になってしまうだろう。

同じように、上記の四人を一緒にするには、無視しなければならない事柄が実に多い。政府・政権そのものの成り立ちの違い、権力を支える組織と制度の違い、指導者の権力の制限の違い、指導者の目標や思想の違い、指導者に対する国民の気持ちと考え方の違い、国の憲法・法制度・経済体制の違い、権力分立の有無の違い……。「形式的な違いしかない」と主張するには、このような詳細を省略しなければならなく、それは実に無責任な発言であるとしか言いようがない。

民主主義とファシズムについては、藤原氏はこのような発言もしている:


「戦後、連合国は第二次世界大戦を『民主主義対ファシズムの戦争』などと宣伝しましたが、それは単なる自己正当化であり、実際は民主主義国家対民主主義国家の戦争でした。どの国にも煽動する指導者がいて、熱狂する国民がいました」

「国家の品格」第三章より


正直に言うと、ファシズムと民主主義の違いを否定しようとする藤原氏の考え方は、真面目に答えるにも値しないと思う。

だが、ナチスなどに立ち向かうことは、戦後からどころか、戦前から「ファシズムと民主主義の対決」として考えられていたことを証明するチャーチル首相の演説をあげよう。

1938年に、アメリカとイギリスの両国で放送された演説の一部だ。演説のテーマは、独裁と戦うために、「アメリカとイギリスが為すべき備え」である:

「武力を高めるだけではなく、我々は思想面においても敵に答えられる力を同時に身に着けなければならない。『ナチズム対民主主義』のように、『哲学の争いにまで巻き込まれてはならない』と主張する者はいるようだが、そんな争いなら、既に始まっているだろう。だが、精神面・倫理面における戦いにこそ、我々自由国は大きな力を発揮できるに違いない」

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